「マスコミはどのように報道したか」今後のための記録
◆「がん・疑い」4人 福島県民甲状腺検査2巡目
(2014年12月26日 河北新報)
福島県立医大は25日、東京電力福島第1原発事故に伴い事故当時18歳以下の県民を対象に4月から実施している2巡目の甲状腺検査で、新たに4人が「がんまたはがんの疑い」と診断されたと公表した。福島市で開かれた県民健康調査検討委員会で明らかにした。
4人は原発事故当時15歳だった女性1人と6、10、17歳の男性3人。避難区域があった田村市と大熊町、避難区域外の伊達、福島両市で各1人だった。2巡目の検査を受けたのは10月末現在、8万2101人。
2011年10月から実施された1巡目の検査では、全員が結節や嚢胞(のうほう)がないか小さいため2次検査は必要ないと診断されていた。県立医大は、今回の検査までの最長2年半の間に発症したとみている。
検討委の星北斗座長は記者会見で「現時点で放射線の影響の有無は断定できない」と述べた。
1巡目で甲状腺がんの確定診断を受けた子どもは8月の発表から27人増え、84人になった。1巡目の受検者は10月末現在、29万6586人。
1巡目の検査で甲状腺がんと診断された23人から摘出された腫瘍の遺伝子の解析結果も発表された。チェルノブイリ原発事故後に現地周辺で子どもの甲状腺がんが増加した際に多く見つかった遺伝子変異はなく、成人の甲状腺がんと同じ変異パターンが多かった。
◆2巡目検査でがん疑い4人 甲状腺、福島県検討委報告
(2014.12.25 23:52 産経ニュース)
東京電力福島第1原発事故の影響を調べる福島県の「県民健康調査」の検討委員会が25日、福島市で開かれた。子供の甲状腺検査で事故直後の1巡目検査では「問題ない」とされた4人が、4月からの2巡目で「がんの疑い」と診断されたことが報告された。
調査主体の福島県立医大によると、4人は事故当時6歳男子、10歳男子、15歳女子、17歳男子で、腫瘍の大きさは7~17・3ミリ。会合では「1巡目でがんを見逃した可能性がある」「1巡目の後に急激に大きくなった腫瘍が見つかったのではないか」「(検査を受ける子供の)平均年齢が上がれば、がんの人数が増えるのも不思議ではない」などの意見が出た。
終了後の記者会見で検討委の星北斗座長は「(がんの疑いが4人見つかったが)放射線の影響は考えにくいという見解を変える要素ではない」と話した。
◆福島で甲状腺がん増加か 子ども4人、放射線影響か確認
(2014/12/24 02:00 共同通信)
福島県の全ての子どもを対象に東京電力福島第1原発事故による放射線の影響を調べる甲状腺検査で、事故直後の1巡目の検査では「異常なし」とされた子ども4人が、4月から始まった2巡目の検査で甲状腺がんの疑いと診断されたことが23日、関係者への取材で分かった。25日に福島市で開かれる県の検討委員会で報告される。
甲状腺がんと診断が確定すれば、原発事故後にがんの増加が確認された初のケースとなる。調査主体の福島県立医大は確定診断を急ぐとともに、放射線の影響かどうか慎重に見極める。
1986年のチェルノブイリ原発事故では4~5年後に子どもの甲状腺がんが急増した。
◆子供4人、甲状腺がん疑い 原発事故直後「異常なし」
(2014年12月24日 2:00 日本経済新聞)
福島県の子供を対象に東京電力福島第1原発事故による放射線の影響を調べる甲状腺検査で、事故直後の1巡目の検査では「異常なし」とされた子供4人が、4月から始まった2巡目の検査で甲状腺がんの疑いと診断されたことが23日、関係者への取材で分かった。
25日に福島市で開かれる県の検討委員会で報告される。調査主体の福島県立医大は確定診断を急ぐとともに、事故による放射線の影響かどうか慎重に見極める。
検査の対象は1巡目が事故当時18歳以下の約37万人で、2巡目は事故後1年間に生まれた子供を加えた約38万5千人。1次検査で超音波を使って甲状腺のしこりの大きさや形状などを調べ、程度の軽い方から「A1」「A2」「B」「C」と判定し、BとCが血液や細胞などを詳しく調べる2次検査を受ける。
関係者によると、今回判明したがんの疑いの4人は震災当時6?17歳の男女。1巡目の検査で「異常なし」とされていた。4人は今年4月からの2巡目検査を受診し、1次検査で「B」と判定され、2次検査で細胞などを調べた結果「がんの疑い」と診断された。
また、1巡目で、がんの診断が「確定」した子どもは8月公表時の57人から27人増え84人に、がんの「疑い」は24人(8月時点で46人)になったことも新たに判明した。〔共同〕
◆福島の子4人、甲状腺がん疑い 2巡目検査で診断
(2014年12月24日 12時33分 中日新聞)
福島県の全ての子どもを対象に東京電力福島第1原発事故による放射線の影響を調べる甲状腺検査で、事故直後の1巡目の検査では「異常なし」とされた子ども4人が、4月から始まった2巡目の検査で甲状腺がんの疑いと診断されたことが23日、関係者への取材で分かった。25日に福島市で開かれる県の検討委員会で報告される。
甲状腺がんと診断が確定すれば、原発事故後にがんの増加が確認された初のケースとなる。調査主体の福島県立医大は確定診断を急ぐとともに、放射線の影響かどうか慎重に見極める。
1986年のチェルノブイリ原発事故では4~5年後に子どもの甲状腺がんが急増した。
(共同)
◆福島で子どもの甲状腺がん増?4人が疑い
(2014年12月24日9時8分 日刊スポーツ)
福島県の全ての子どもを対象に東京電力福島第1原発事故による放射線の影響を調べる甲状腺検査で、事故直後の1巡目の検査では「異常なし」とされた子ども4人が、4月から始まった2巡目の検査で甲状腺がんの疑いと診断されたことが23日、関係者への取材で分かった。甲状腺がんと診断が確定すれば、原発事故後にがんの増加が確認された初のケースとなる。
1986年のチェルノブイリ原発事故では4~5年後に子どもの甲状腺がんが急増した。このため県立医大は、事故から3年目までの1巡目の結果を、放射線の影響がない現状把握のための基礎データとしてとらえ、2巡目以降でがんが増えるかなどを比較し、放射線の影響を調べる計画。
また、1巡目で、がんの診断が「確定」した子どもは8月公表時の57人から27人増え84人に、がんの「疑い」は24人(8月時点で46人)になったことも新たに判明した。
◆福島の甲状腺がんは原発事故原因が決定的に
(2014年12月24日 15時57分 ヤフーニュース)から抜粋
団藤 保晴 | ネットジャーナリスト、元新聞記者
福島の子どもたちに発見されている甲状腺がんが原発事故による発症である疑いが決定的になってきました。原発サイトからの放射能流出が長期に渡った点も新たに判明、原因でないと否定していた行政側見解が崩壊です。事故直後の甲状腺検査で異常なしだった子ども4人に、今年になって2巡目の検査で「がんの疑い」が報じられました。
日経新聞の《子供4人、甲状腺がん疑い 原発事故直後「異常なし」》がこう伝えました。《今回判明したがんの疑いの4人は震災当時6~17歳の男女。1巡目の検査で「異常なし」とされていた。4人は今年4月からの2巡目検査を受診し、1次検査で「B」と判定され、2次検査で細胞などを調べた結果「がんの疑い」と診断された。
《幻の放射性ヨウ素汚染地図を復活させる【福島県版まとめ】》から引用させていただいた汚染分布地図です。米国の航空機モニタリングが原データで福島県の東半分しか描かれていませんが、セシウム134に比べてヨウ素131の分布が南部にも西部にも厚く広がっている点が見て取れます。
どうしてこのような差があるのか不思議でした。21日放映のNHKスペシャル「メルトダウン File.5 知られざる大量放出」が謎を解いてくれました。これまで政府事故調などが調べてこなかった2011年3月15日以降に大量放出が続いていたのです。1号機や3号機の水素爆発、2号機の格納容器破損による放射能流出は全体の25%ほどに過ぎず、15日以降こそが流出本流だったと言えます。その中にヨウ素131が特異に多い流出もあり、南に西に福島県内に広く流れたようです。地図は土壌に沈着した分だけであり、揮発性であるヨウ素は空気中に大量に拡散したでしょう。甲状腺に蓋をするべきヨウ素剤は配布されませんでしたから子どもたちは無防備のまま置かれていました。
報告されている甲状腺がん患者の分布は福島県全域に広がっており、原発サイトから北西方向に汚染の主流がある状況と差がありましたが、この疑問も解消です。福島県はチェルノブイリ事故での甲状腺がん増加が4、5年経ってから起きたことを論拠に、福島での甲状腺がんは多数の検査をしたため普段は見つからない例が掘り起こされたもので事故とは無関係との見解でした。最初の爆発が圧倒的だったチェルノブイリに比べて、福島では放射性ヨウ素への被ばく状況は大きく違ってきました。チェルノブイリ後の再現でないから原発事故の影響でないと否定するのは非科学的です。
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◆NHKスペシャル メルトダウンFile5.「知られらざる大量放出」
2011年3月13日、東北沖に展開していたアメリカの空母が放射線量の上昇を捉えていた。東京電力福島第一原子力発電所の事故。空母は、事故で放出された放射性物質のデータをその後も記録し続けていた。今回、こうした新たなデータを解析すると、これまで知られることのなかった大量放出の実態が浮かびあがってきた。
世界最悪レベルとなった原発事故。福島第一原発は、巨大津波によってすべての電源が失われ、3つの原子炉が次々とメルトダウンした。さらに1号機と3号機の建物が爆発。これまで放射性物質の大半は、事故発生から最初の4日間で放出されたと考えられてきた。今年公開された吉田調書など国がこれまでに行った事故調査は、この4日間が中心だった。しかし、その放出は全体の一部に過ぎなかった。今回新たなデータを解析し、専門家とともに映像化。結果は衝撃的なものだった。最初の4日間で放出された放射性物質は、全体の25%に過ぎなかった。その後2週間にわたって全体の75%もの放出が起きていた。
この知られざる大量放出は、なぜ起きたのか。その原因として強く疑われたのは原発に潜む構造的な弱点だった。
【事故解析の専門家のコメント:事故の現象が長引いたというところが最大の問題。原子炉の専門家のコメント:もともと(放出を止める)マニュアルなんて全然できていない。】
事態は収束に向かうどころか、むしろ悪化していた。人々の帰還を阻む深刻な汚染、その新たな原因が見えてきた。
【事故対応にあたった東電社員のコメント:のちの復帰を考えると(3月15日以降は)かなり(放出による)汚染が高い時期でしたので、(環境への)影響は変わってきたのではないかと。】
事故から3年9か月。いま浮かび上がる新たな真実。
これまで全体の放出量は概ねわかっていたが、それがいつどのように出たのかという詳細な部分はわかっていなかった。それが今回新たにわかってきた。まずこれまでにわかっていたことを時系列でみる。
あの時、福島第一原発では、6つある原子炉のうちの運転中だった3つの原子炉が次々とメルトダウンした。
まず事故発生当日の3月11日、1号機がメルトダウンして翌日に水素爆発。
その次が3号機。3月13日にメルトダウンして翌日に水素爆発。
最後が2号機。3月14日にメルトダウンし、爆発はしなかったが格納容器が損傷。
そこから放射性物質が大量に放出されたと言われている。ここまでが事故発生から4日間(3月15日の午前中まで)の出来事。
これまでの調査は、なぜ事故が起きたのかという原因の調査に重点が置かれいた。その意味で、最初の4日間が重要だと考えられてきた。しかし、全体の75%の大量放出があった15日の午後以降2週間の間、水面下で新たな危機が起きていた。
福島第一原発事故の影響で大規模な停電が続いていた2011年3月15日東京。枝野官房長官「1号機、2号機、3号機とも注水作業を継続している。冷却の効果が生じているものと思われる」。事故発生から4日間で次々とメルトダウンした3つの原子炉。現場は事故の収束を急いでいた。原子炉はなおも高い温度の状態が続いていた。このまま圧力が高まり、原子炉を覆う格納容器が大きく損傷すれば、大量の放射性物質が放出されかねない。原子炉を冷やすために行われていたのが、消防車による注水。 本来、消火用の設備だった配管を使って原子炉に水を注ぐという全く想定していなかった対応だった。
事故対応の最前線の免震重要棟。このころ、600人を超す社員らが一時的に避難していたため、吉田所長以下、およそ70人が事故対応にあたっていた。3月15日。消防車からの注水が本格化したことで、現場は、最悪の事態は切り抜けたと感じていた。【免震重要棟に戻ってきた東電社員のコメント:「精神的に疲れていた。私自身もそうだったが、なんとか早く復旧をして、安全な状態に福島第一をもっていくと。」
新たな情報は、原子炉がある建物から放射性物質の放出が続いているというものだった。消防車による注水が届いていない可能性が浮かび上がった。
現場の放射線量が高いため、消防車は無人の状態でまる2日間、注水を続けていた。消防車は順調に水を送り出ていた。一方、3号機中央制御室に確認に向かった運転員たち、水は原子炉に届いているのか、バッテリーを使って水位計を復旧。水位を確認。すると、TAF-2300。燃料が露出していた。炉心損傷割合は30%まで上昇。現場は、原子炉で起きている事態をつかみきれずでいた。
【免震重要棟で事故対応にあたった東電社員のコメント:「手足をもがれて、目も見えないみたいなそのような状況の中でみんな必死になって対応している。やれることを一生懸命やっていながらも、なかなか思い通りになってくれないし、そういった流れが怖かった。」】
原子炉の中で何が起きていたのか。2013年のFile3の放送では、消防車注水が一部別の場所に抜けていたことを突き止めた。複雑な配管の途中にあるポンプ。本来動いているはずのこのポンプが止まっていたため、水が別の場所に流れ込んでいた。その後、東電の検証で抜け道は1号機から3号機、合わせて18箇所にのぼっていたことが明らかになっている。
今回、新たな取材から、実際に原子炉に注がれていた水の量に関する手掛りもみつかった。東電の内部資料では、1トン/時。これに対して、消防車から出ていた水の量は30トン/時。現場の誰もが想像し得なかったわずかな量だった。この水の量は原子炉にどのような影響を与えていたのか?【原発事故解析の専門家 エネルギー総合工学研究所 内藤正則氏:「(わずかな)水を入れたことによって、溶けていなかった燃料の温度がさらに上がる。で、また溶け出す。」】 専門家による3号機のシュミレーションでは、メルトダウンによって核燃料の43%が溶け落ちたものの、半分以上は中心部に残っている状態だった。溶け残った燃料のメルトダウンを防ぐためには、すべての燃料を水に浸す必要があった。しかし実際には水はわずかしか入っておらず、注がれた水はすぐ蒸発。このわずかな水を注ぎ続ける状態が、かえって事態を悪化させていたのではないかと指摘されている。
核燃料を覆っている特殊な金属を使って実験。まず1200度まで加熱し、わずかな水を蒸発させて流し込む。すると金属は冷やされるどころか、急速に温度が上昇。わずか2分で温度は78度上昇。これは、核燃料を覆っている金属と水蒸気が化学反応を起こし、激しく熱を出すためだ。表面の温度が急上昇すると亀裂が生じ、放射性物質が漏れだす。 メルトダウンを止めるはずの水が、逆に放出を長引かせていた。
【内藤正則氏:「核燃料を覆う金属と水の反応の発熱量が大きいので、燃料はゆっくりと溶け出す。高温の持続時間がかなり長引いた。そうすると放射性物質が流れ出る時間がどんどん長引く。」】
今回明らかになった全体の75%を占める大量放出。3月15日午後からおよそ2週間続いた。その間、原子炉内部では注水が原因で放射性物質が出続けていた。それが格納容器の隙間からじわじわと漏れだし、長期間の放出につながっていたとみられる。
そもそも原発がすべての電源を失って、注水が出来なくなるという事態は全く想定されていなかった。消防車による注水も、いわば吉田所長が考え出した苦肉の策だったが、まさかこれほどの水が別の場所へ抜けるとは思ってもみなかった。さらに、わずかな水が原子炉の状態をこれほど悪化させるということも考えていなかった。想定外のことが次々起きて、対応がその場しのぎにならざるを得なかった。そのことが、放射性物質の放出に拍車をかけた。今回の分析では、大量放出の原因がこれだけではないということもわかってきた。3月15日の午後から始まる大きな放出のやまがある。このやまは、全体の10%を占める極めて大きなやまであった。このやまは、これまで考えられていた汚染の実態をくつがえすものだった可能性が浮かび上がってきた。
今回新たに入手したデータをもとに、原発周辺の汚染をシュミレーションした。帰還困難区域となっている北西方向に深刻な汚染が広がっている。これまで、この汚染の大半は事故発生から4日間の放出で広がったと考えられてきた。しかし、専門家と共に時間ごとの汚染の広がりを調べたところ、驚くべき事実が明らかになった。15日正午までの汚染の状況では、放射性物質は広範囲に広がるものの汚染はそれほど集中していない。15日午後以降、翌朝までの時間帯を見ると、北西方向に放射性物質の濃度が極めて高い場所が現れた。この汚染をもたらしたのが、今回新たに分かった全体の10%を占める放出だった。なぜ放出が起きたのか?再び専門家と読み解く。
【日本原子力研究開発機構 茅野政道氏:「大きな線量上昇があるところの時間帯は(15日の)夜中。」】
【エネルギー総合工学研究所 内田俊介氏:「問題は、ある時期だけヨウ素が出やすい。それが何かというのが今回のポイントの一つ。」】
専門家が注目したのは、この時間帯に放出された放射性物質の種類。なぜかこの時間帯だけ、放射性ヨウ素が大量に放出されていた。格納容器から直接漏れていたとすれば、放射性ヨウ素ばかりがこれほど大量に出るはずがない。ではどこから放出されたのか?15日午後以降の記録を徹底的に洗いなおすと、放出の少し前、3号機である操作が行われていたことがわかった。ベントである。
この時間、3号機では格納容器の異常が検知されていた。3月15日午後4時3号機中央制御室、ウェットウェルベント開。【中央制御室で事故対応にあたった元東電運転員のコメント:「まずは格納容器の保護。そこを第一に考えなければいけないので、(格納容器の)健全性を失わないためにも保護するためにもベントは必要だった。」】ベントは、圧力が高まった際に格納容器を守る操作。格納容器内部の蒸気を水にくぐらせ、放射性物質の量を1000分の1に下げた上で外に放出するというものだった。しかし、ベントの後、敷地内で放射線量が急上昇。メルトダウンFile.4では、ベントに潜む弱点を指摘した。ベントでは、格納容器の下に溜められた水に放射性物質を取り込む。しかし、水が高温になるとその機能を失い、大半の放射性物質を逃してしまうことがわかった。ただ、その場合でもここまでの放射性ヨウ素が出るこ とは考えにくい。そこで、ベントによる放出経路を全て調べることにした。注目したのは、30mに及ぶ地下の長い配管。実はこの配管は、ベントで放射性物質を出す際、最終的なフィルターの役目も果たす。ここまでに水で捉えきれなかったヨウ素などの放射性物質が、配管の内側に吸着される。記録によれば、3号機はそれまでに4回のベ ントを行っていた。大量放出は5回目のベントのタイミングで起こっていた。
【エネルギー総合工学研究所 内藤正則氏:「1回目、2回目、3回目と5回目のベントとは、かなり様子が違う。」】それまでのベントで配管に溜まった大量のヨウ素が、5回目のベントで一気に放出されたのではないか? 地下配管の構造を再現し、実験で確かめる。放射線を出さないでヨウ素 を管に入れ、それが混じった蒸気を格納器側から流し込む。 この時、ヨウ素が配管に付着する。しかし、予想外のことが起きた。ベントを繰り返すうちに、管に水がたまり始めた。その状態でベントによる蒸気が流れ込むとどうなるか?蒸気が水を押しこむ。しかし、水によって押し戻される。しばらく水と蒸気が押し合う状態が続く。そして、水が加熱されて霧状となり、外部へ押し出されていく。排出されたヨウ素の量を測ると、1回目の10倍以上になっていた。
地下に埋設された配管は、水がたまりやすい構造になっている。ベントを繰り返すうちに配管は水で満たされ、付着したヨウ素が水に大量に取り込まれていたとみられる。5回目のベントによる蒸気がここに流れ込み、本来配管にとどまるはずの大量のヨウ素をこれが一気に放出したと専門家はみている。
【エネルギー総合工学研究所 内田俊介氏:「こういうところ(配管)にトラップ(吸着)されたものが、ぶわっと出てくるということは事実としてわかったので、こういう現象が起きないようにするということは考えていかないといけない。」】
【エネルギー総合工学研究所 内藤正則氏:「事故の時間経過が、何日間にも渡るということは今まで想定していなかった。例えば格納容器ベントだって、それ(配管)を付けた時はもっと短時間の現象しか想定していなかった。」】
ベントを繰り返したことで起きたとみられる10%の大量放出。 事故の収束が長引く中で浮かび上がった思わぬ事態だった。
「スタジオ:これまで、浪江町や飯舘村など原発から北西方向の汚染というのは、15日の午前中に2号機から放出された放射性物質が原因ではないかと言われてきた。しかしまだ放射線量の埋もれたデータがあって、これを専門家が改めて分析したところ、今回のこの3号機のベントも大きく影響していた可能性というのが浮かび上がった。私たちが取材した東京電力の元幹部は、ここまで対策をすれば絶対安全だというふうに考えた途端に同じ過ちを繰り返すことになるというふうに話していた。つまり、原発に100%の安全はないということだ。実際アメリカやヨーロッパでは、スリー マイル島原発事故やチェルノブイリ原発事故を境に、原発にはリスクがあるもの、つまり原発は絶対安全なものではないという前提に立って規制を行っている。これに対して、事故が起きる前、日本では重大事故は起きないという前提 にたってきた。そのことが、原発の弱点や落とし穴を見逃すことにつながった。
放出が概ねおさまったというのは、3月末。その後、電源が回復して仮設のポンプが動き始め、原子炉が安定して冷やせるようになって放出が収まっていった。75%の放出の裏には、原発の構造的な問題だけではなく、事故の対応にあたる人の判断も大きく関わっていた。今回の取材で、そこにも原発事故特有の難しさがあったということが明らかになった。」
2011年3月16日。事故から5日が経ち、なおもメルトダウンが続く3つの原子炉。現場はが急いでいたのは、津波によって失われた電源の復旧。電気があれば強力なポンプを使い、原子炉に大量の水を注げる。核燃料を冷やすことが出来れば、放射性物質の放出も抑えることができる。【事故対応にあたった東電社員のコメント:「非常用の冷却機器を動かすもととなるものは電源。その電源がなくなったということは、何もできない、何も動かせない。バルブの一つも動かせない。それ(電源)を確保するということを最大に考えていた。」】
その一方で、原子炉とは別の懸念も膨らみ始めていた。1号機から4号機の燃料プール(核燃料を冷やして保管するための設備)で、冷却装置が止まっていたため水が蒸発し、核燃料が最悪メルトダウンするおそれがあった。現場が最も不安を抱いていたのは4号機のプール。 ここにはもっとも多い1,500体を超す核燃料が保管されていた。4号機は、3号機から流れ込んだ水素による爆発で、天井が吹き飛んでいた。プールの核燃料がメルトダウンすれば、東日本全体に深刻な汚染が広がるおそれがあった。しかし、プールの周辺は放射線量が高く、水があるかどうか近づいて確認できずにいた。
3月16日午後、燃料プールの状況を確認するため、自衛隊のヘリコプターが原発上空へ向かった。3号機は、爆発の瓦礫が積み重なり、水蒸気を吹き上げていた。その隣の4号機。免震重要棟にもその映像がすぐ届けられた。崩れた壁の隙間から、一瞬、光の反射が見えた。プールの水面ではないか?
当時の東電内部のやりとりを示した内部資料:「燃料プールに水があるように見える。」
プール周辺の線量のデータも入ってきた。毎時100mSv。それは、プールにまだ水が残っていることを示す数字だった。プールの映像を確認した後、東電は作業の優先順位を決めていた。翌朝の現場での作業は、電源復旧作業を急ぐ計画になっていた。3月17日朝。電源復旧を担う応援部隊が福島第一原発に向かった。関東各地から400人を超す電気工事の技術者が集められていた。しかし、福島第一原発の手前10kmの地点で止められた。最優先と位置づけられたはずの電源復旧。なぜかすぐに始めることができない。急遽進められていたのは、自衛隊ヘリによるプールへの放水。さらに地上からも放水。放水中はケーブルがぬれるため、電源復旧作業はできない。
【当時の自衛隊トップだった折木良一元統合幕僚長:「統合本部が判断されて、まずこちらが優先だよねということで、ヘリの放水をやった。専門的な判断とか分析は、我々にはわからない。」】
3月17日夜、「その日は作業中止、翌朝から再開」との本部決定が技術者たち告げられた。
【電源復旧にあたった東電社員のコメント:「危機的状態だったので、待ち時間というのは自分たちの命にも関わることに直結した時期だったので、なかなかイライラ感はぬぐえなかった。」】
なぜプールへの放水が優先されたのか?この頃、事故の指揮命令系統に大きな変化が生じていた。東電本店に設置された政府・東京電力事故対策統合本部。事故対応の判断を本部が下すようになった。プールへの放水は、本部が急遽決定したものだった。
【当時、首相補佐官:「もともと予定していた形(電源復旧)と異なる形になって、現場には大変ご迷惑をお掛けすることはお詫び申し上げます。ただ政府として効果を最大限に出すためにどうすればいいかということを菅総理、北澤防衛大臣を含めて、朝、緊急協議をした結果であります。ぜひご理解いただき、ご協力いただけるようお願い申し上げます。よろしくお願いします。」】
東電では、原発事故の際、対応の優先順位を現場が決めることが原則。本店は物資の補給など現場を支援する役割。しかし、統合本部が設置された3月15日以降、その役割は逆転し、東京の本部から現場に指示が出るようになっていた。プールを優先するという本部の判断の背景には何があったのか?事故直後、アメリカが日本に送り込んだ専門家チームの代表 米国・原子力規制委員会のチャールズ・カストー氏。 カストー氏は総理大臣官邸で、自衛隊ヘリから撮影された4号機の映像を見せられたという。
【チャールズ・カストー氏:「日本政府は非常に短い映像を見せてきて、そこに映っているのは水面の反射だと考えていると言った。しかし、人の命がかかっているときは慎重になるべき。我々は決定的な証拠がない限り、燃料プールには水がない、もしくは限りなく少ないと考える。そこが日本との判断の違いだった」
米国・原子力規制委員会の当時の議事録:4号機の燃料プールは干上がっているようだ。激しく蒸気を出している3号機のプールも水がないだろう。限られた情報しかない中で、アメリカは最悪のシナリオを想定。原子炉に加え、4号機のプールでメルトダウンが起きるおそれがあるとして、日本政府が指示した範囲よりはるかに広い、80km圏内からの避難を呼びかけた。自衛隊ヘリによる放水の前日、アメリカは日本政府に強い危機感を伝えた。
【東アジア地域の責任者だったカート・キャンベル元国務次官補:「かなり不安だったので、今すぐ本国に危機を伝えるべきだと大声で訴えた。’大使、今はこの60年で日本が直面する最大の危機です。すぐに行動をとるべきだ’」 】
キャンベル元国務次官補が危機感を伝えたのは、藤崎一郎元駐米大使。
【藤崎一郎氏:「アメリカが、3号機も4号機も水がないんじゃないかと心配していると。すぐ外務省に伝えて、外務省が官邸に伝えていると思う」】
プールを優先するという統合本部の判断は、国内外の危機感を重く受け止めた結果だった。電源復旧作業はプールへの放水のたびに中断を繰り返す。その間に も、放射性物質の放出は続いていた。3月21日には南向きの風に運ばれ、関東一円を汚染。東京の水道水の一部からも放射性物質が検出。4号機プールへの放水が終わり、 電源復旧作業が本格化したのは3月22日。「キリン」と呼ばれるポンプ車でプールへの安定的な注水ができるようになったためだった。4号機の燃料プールの様子がカメラで直接捉えられたのは4月。プールに水があるという決定的な証拠だった。ひとたび原発事故が起きれば、正しく状況を把握し対処することがいかに難しいか。突きつけられた重い課題だ。
スタジオ:「当時は東京電力の中でも、プールに本当に水があるのか慎重な考え方もあった。ひとたびメルトダウンが起きてしまうと、極めて高い放射線量というものに阻まれて現場に近づくことが出来なくなる。そうなると、重要な情報も確認が出来なくなる。情報がなければ判断が分かれた時に決断を下すことが難しくなる。判断を誤れば、極めて深刻な事態に陥りかねない。それが原子力災害の難しさであり、原発が宿命的に抱えるリスクでもある。いま原発再稼働へ向けた動きがある中で、今回のことは安全対策にしっかり生かされていくのか?ベントに関して言えば、配管の途中に放射性物質を取り除くフィルターを取り付けるなど安全性を高める取り組みが行われている。またこの原発の事故の後に作られた新しい規制基準の中でも、ベントは7日間は性能を維持できるということが要求されている。ただ、それ以上に事故が長期化する可能性はないのか、その点は考える必要がある。一方、消防車による注水だが。福島第一原発の事故の後、全国の原発で原子炉に水を注ぐ最後の手段として消防車の配備が広がった。ただ、これも万が一の際に本当な充分な水が入るのか、こういったことも検証が必要だ。
現状として、事故の全貌はどのくらい明らかになっているのだろうか?
放射性物質の大量放出については、まだ埋もれているデータもあり、検証は道半ば。さらにメルトダウンを起こした原子炉だが、これは近づくことさえ困難で、内部の状況が確認できていない。全体像の解明には数十年かかると考えられている。原発に絶対の安全はないという原点を見つめ続ける。そのことは、将来に向けた私たちの責務。
事故から3年9ヶ月。原発の周辺では、専門家による汚染の調査が続く。今も点在するホットスポット(放射線量が高い場所)。今回わかった3号機からの知られざる大量放出の影響が大きいとみられている。故郷に帰ることができない12万人を超す人たち。事故前、畜産業を営んでいた女性。原発周辺に残していった牛の世話をするため、いまも避難先から通っている。
【女性:「なんとも言えないね。帰りたいのに帰れない。」】
事故の悲劇を繰り返さないために、過去の教訓に学び、生かしていけるのか。 問いかけは続く。
おわり