「東京新聞は、変わった」
今、最も信頼できるマスメディアの一つが東京新聞だと思う。
3・11から1年 私たちは変わったか
(2012年3月11日 東京新聞【社説】)
3・11は日本に重い課題を突きつけました。日本の復興とエネルギーの未来です。歴史的責任を感じます。だがそのために私たちは変わったのだろうか。
雪の福島で印象深い二人に会いました。
一人は三春町の元副町長。一年前を静かに語りだした。
…ここは福島第一原発から西へ約五十キロです。1号機爆発の三月十二日の夜、原発近くからの避難民二千人を受け入れました。翌十三日、避難民には安定ヨウ素剤が配られた。それが何か私たちは知りません。だから勉強しました。
爆発は次々起きます。県がヨウ素剤を保管していると知り保健師に取りに行かせました。
◆ヨウ素剤いつ飲ます
でもそれを町民にいつ飲ませたらいいのか。効力は飲んで二十四時間。いつ飲むかは重大な問題です。私は大学山岳部の出で観天望気をかじっていました。データを集め自分で天候予測をする。
十五日。午後雨の予報。風向を見るため吹き流しを二カ所(役場と山の上)に設置。東風確認。ネットで茨城県東海村では放射能が通常値の百倍と知る。
決断しました。午後一時、町民にヨウ素剤の配布・服用の指示です。あとで知ったのですが、服用指示はほかでは出されていませんでした。でも町民を守れました。
聞き終わって、たずねました。
一年前と今とは何か変わるところはあったのですか、と。
答えはごく簡単でした。
…国も県も変わっていない。
統治体、統治の仕組みに対する不信です。放射能の流れを予測するSPEEDIは働いても国民には知らされない。対策は後手ばかり。自治体は懸命なのに、国の政治は不在も同然。例えば復興庁発足の何と遅かったこと。日本中が歯ぎしりする思いでした。
◆国に欠けていたもの
では国に何が欠けていたのか。それは首長たちの働きと比べれば一目瞭然です。住民、国民を守り切るという情熱と覚悟です。あのころ残っていた希望とは、日本人が日本人を見直したことです。私たちにはできるのです。
それでも、一年を経て状況の本質が変わらないとすれば、私たち自身が実は変わっていないのではないか、という問いかけが必要になります。
三月十一日はその前も鋭く思い出させました。高度成長の中で、また経済優先と効率化の波の中で、私たちが忘れ、また奪われてきたものです。人の命の重さ、共同体の大切さ、忍耐や思いやり、中央と地方の格差、貧富の広がり…とりわけ原発立地地の不安。
政治がもし変わらないのなら、政治に頼むのではなく、私たち自身が変わらなければなりません。主権者はいうまでもなく私たちなのであり、私たちが変われば日本は変わるのです。
福島で印象深かったもう一人は地元の老ジャーナリストでした。
原発はずっとそばにあった。彼は言いました。
「振り返れば、ぼくは原子力村の側の人間だった。大した疑問は持たなかった」
その悔悟は地方中央を問わず、多くのメディア人のもつ思いと通じるかもしれない。原発に対する批判力がいかにも弱かったのではないか、と。原子力を進歩の象徴とし、その黒い影が見いだせなかった。
今、老ジャーナリストはしわ深い顔で付け加えました。
「日本には広島、長崎があったのです」
その言葉の先には福島があるようでした。
日本はあらためて世界に発信せねばなりません。核に頼らない、新しいエネルギー、新しい暮らしを世界に知らせねばなりません。
現状はどうか。政府は原発の再稼働に前のめりになり、原発の海外輸出に何のためらいもなく、国民の知りたいエネルギー計画は進んでいるようには見えない。
日本の原子力政策は何も変わっていないようにも見えます。何かを真剣に考え抜いたという痕跡が見あたらない。身近で危険なものほど、国民によく公開され、説明されるべきなのに。
◆新しい日本を創ろう
私たちは変わったか、という問いは厳しすぎるかもしれません。しかし前進するためには、絶えざる自戒と反問が必要です。昨年のきょうは、未来への真剣な考察を私たちに重く課したのです。恐るべきほど多くの犠牲のうえに。
それに報わずして何としましょう。被災地の人々は変わったけれど、そうでない人々は変わらないという事態を恐れます。国を古きから新しきに変えて、原発に頼らない国を創る。核なき世界を目指す。新しい日本を創りましょう。新しい日本は私たち一人ひとりの中にあるのです。