福島で原発事故が起こってから、「チェルノブイリの医療支援活動で、どんなことをやってきたんですか?」という質問を受けることが多くなったので、手元にある写真などをもとに「チェルノブイリ支援運動・九州」という市民団体の運営委員としてやってきたことを少しまとめてみました。また、後半は、先日出版された『ストップ原発〈4〉原発と私たちの選択』の紹介をしています。
<チェルノブイリ医療支援活動・特に子どもたちを中心に支援してきた>
「チェルノブイリ支援運動・九州」は、1990年に、九州で脱原発の活動に取り組んでいた市民が呼びかけて設立されました。現地を訪問し、現地の実情を聞き、本当に必要な支援活動を続けるなかで、共感する人が全国に広がっていきました。2007年に「チェルノブイリ医療支援ネットワーク」に改名されています。
◆ベラルーシを中心に医療機器や薬、移動健診車、保養施設を支援
チェルノブイリ原発はウクライナ共和国にありますが、事故当時、風がベラルーシ共和国の方に吹いていたため、ベラルーシが最も汚染されました。そのため、医療支援の多くは、ベラルーシに対して行われました。(しかし、ウクライナにも病気は多発しています)
具体的には、今の福島県の汚染状況に近いゴメリ州やブレスト州、そして、首都ミンスクの病院などに医療機器(超音波診断装置=エコーや血液分析機)や薬(ホルモン剤やビタミン剤)や移動検診車を寄贈したり、ベラルーシ国内の放射能汚染数値が低い地域に「保養施設(サナトリウム)」をつくり、運営する資金援助などを行ってきました。
この写真が撮られた1993年当時の甲状腺手術は「チェルノブイリのネックレス」と言われるほどに大きな傷跡が残るものでした。しかし今では、大きな傷をつけない手術法が拡まっています。それは、いま長野県松本市の市長になられた菅谷昭さんの貢献が大きかったと思います。菅谷さんはチェルノブイリ原発事故の後、信州大学医学部の助教授のイスを捨てて退職金を持ってベラルーシに行き、退職金がなくなるまで5年半も現地に滞在して医療支援を続けられました。そのときに手術跡があまり目立たず、より安全な手術法を現地の医師たちに指導されています。
菅谷さんは、福島原発事故が起きる前はNHKの『プロジェクトX』という番組にも取り上げられるような「英雄」でしたが、福島原発事故が起きた後に政府の被ばく対策を批判するようになると、重要な指摘をしてもNHKは菅谷さんを取り上げなくなりました。
◆「保養」の支援
支援活動は、主に子どもたちを対象に行われました。現地の要望に応えて、ベラルーシ国内の「非汚染地域」で、24日間、担任の先生も同行してクラス単位で保養できる施設の運営費用をサポート。サナトリウム「キュウシュウ」という名前は、チェルノブイリ支援運動「九州」から名付けられました。非汚染食品を食べられる食堂があって、食べ物や飲み物による内部被ばくの心配がなく、環境からの外部被ばくの心配もない場所で、医師による検診も受けられて、クラスメイトと共に過ごせる保養施設は、ベラルーシにもあまりなかったようで(今は国営のサナトリウムが増えています)とても喜ばれました。こうした保養施設が福島原発事故後の日本にも必要になってきています。
◆1992年12月 ベラルーシの「サナトリウム九州(転地保養施設)」開所式
(下の右上の写真)
子どもたちと一緒に笑って写った写真。彼らの笑顔が今も記憶に残っています。
当時はまだ珍しい取り組みだったので、たくさんのメディアが取材してくれました。
1992年に保養所の前で、初めて保養に来た子どもたちと
◆サナトリウムの食堂 汚染されていない食べ物だから安心して食べられる
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◆1992年からベラルーシの多くの病院に医療機器や薬を届ける
◆ベラルーシのアントン・ロマノフスキー赤十字総裁に薬や医療機器を渡す
首都ミンスクにある基幹病院や汚染数値が高いゴメリ州の病院を中心に甲状腺がんなどを検査する超音波診断装置や自動血球計測装置、血液分析器などの医療機器や甲状腺がんの手術をした人たちに必要なホルモン剤などの医薬品、ビタミン剤などを毎年のように届けに行きました。そうした支援を続ける中で、ゴメリ州の子ども病院から子どもたちに増えている病気のデータをもらいました。
このデータを要約すると、事故前の85年と94年を比較すると、急性白血病 2.4倍、喘息が2.7倍、糖尿病 2.9倍、血液の病気3倍、先天性障害 5.7倍、ガン11.7倍、消化器系の病気は、20.9倍にもなっていました。
◆贈呈した移動検診車の前で記念写真
1997年から「移動検診車導入による早期診断・治療システム確立」というプロジェクトに取り組んできました。この取り組みを始めた理由の一つに、放射能汚染地の多くが自給自足的な農業を中心とした地域が多く、現金収入が少ないため、首都にある専門の病院に検査に行くお金がないということがありました。そのため、健康に不安がありながらも検査をしないまま甲状腺がんが肺などに転移して亡くなる人たちがいました。2人の子どもをガンの転移で亡くしたお母さんもいます。そうしたことをできるだけ防ぐために、放射能汚染地をまわる移動検診車を贈呈しました。そして、日本人医師にも検診活動に参加していただき、優れた検診技術を現地の医師に伝えていただきました。
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◆チェルノブイリの子どもたちの作文集『わたしたちの涙で雪だるまが溶けた』を出版
(1995年6月10日 チェルノブイリ支援運動・九州が発行)から抜粋・要約
チェルノブイリ原発事故から8年後にベラルーシで、「私の運命の中のチェルノブイリ」というテーマで作文コンクールが行われた。呼びかけに応え、寄せられた作文の数は500を超え、その中から優れた作文100編が『黒い雨の跡』というタイトルで出版された。作文を書いたのは、主として中等学校(11年制で、6歳から16歳までの子どもが学ぶ)の高学年の生徒たちである。
事故が起きた時、彼らはまだ幼く、なにが起きたのかを正確に理解することができなかった。そんな子どもたちに襲いかかった悲しみや苦悩が、一人ひとりの体験として綴られている。たった一回の原発事故がいかに多くの人々の運命を変えてしまったことか。だが、絶望や悲しみだけではない。取り返しのつかない悲劇を引き起こしてしまった無責任な大人たちを鋭く告発しながらも、自分たちとこれからの世代に希望をつないでいる。
日本語版では、これらの作文のうち50編が収録されている。この50編を選ぶに際し、ベラルーシの子どもたちと同世代の日本の中高生に、作品を選ぶ作業に加わってほしいと呼びかけた。この呼びかけに対し、全国からたくさんの中高生が協力を申し出てくれた。この本は、ほとんど彼らが選んだ作品で構成されている。
この本の発行には「二度とこのような悲劇をくり返してはならない」という願いが込められていた。
(写真:左はブラジルで出版されたポルトガル語版 ブラジルで有機コーヒーの栽培に取り組んでいたカルロス・フランコさんやブラジルのグリーンピース、ブラジル日本人会などが出版に協力してくれました)
◆『わたしたちの涙で雪だるまが溶けた』ベラルーシでの出版記念会
◆事故を起こしたチェルノブイリ原発4号炉の前で 現地の医療支援関係者と
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◆『ストップ原発〈4〉原発と私たちの選択』
文化人類学者の辻信一さんと高橋真樹さんが、子ども向けの本を出版され、少し私のことも紹介して下さっています。絵本のような本でとても読みやすく、子どもたちにおすすめです。
◇福島の子どもたちを救え 広がる支援の輪(28ページ)
●放射線は子どもにより影響を与える
チェルノブイリ原発事故は、とくに子どもの被害が大きかった。福島原発の事故でも、子どもたちへの影響が心配されている。年齢が低くて細胞分裂が活発なほど、放射線が体に与える影響は大きい。長年、放射能の人体への影響を研究してきたカリフォルニア大学のジョン・ゴフマン教授によれば、0歳の乳児は30歳の成人の約4倍、さらに55歳以上と比べると300倍以上の大きな影響を受けることになる。だから、大人はまず子どもたちを放射能から守る対策をたてなければならない。
◆福島の子ども支援の取り組み
このことを経験からよく知っているのが、チェルノブイリ原発事故のあと、甲状腺ガンなどの病気になった子どもたちのための医療支援に取り組んできた中村隆市さんだ。中村さんは、その経験をいかして、今度は福島やその周辺の子どもたちを放射線から守ろうと、ネットやツイッター、講演会などを通じて、マスコミでは得られないような貴重な情報を発信してきた。
また、福島とその周辺から避難してくる家族を自分が住んでいる九州に受け入れる一方、福島の保育園や幼稚園、そして子どものいる家庭向けに、逆に九州の野菜や米を送り届けている。そんな中村さんから、福島の子どもたちを支援する各地の取り組みを紹介してもらおう。
◆ 子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク
原発事故の後「安全、安心」と繰り返した政府や福島県の対応に不信感を抱いた福島の内外に子どもを持つお母さんお父さんたちが、情報を共有する場としてたちあげたネットワーク。政府への要請、話し合いの場作り、放射線測定器の貸し出し、避難に関する相談などを行っている。また、全国に同様のネットワークができて、福島の人々と連携している。
◆未来の福島子ども基金
NGOチェルノブイリ子ども基金は、毎年、チェルノブイリ事故で被災した子どもの支援や、支援のコンサートを開催してきた。福島の事故後は、福島の子どもを支援する「未来の福島子ども基金」をつくった。これまでの経験を生かして、募金を集めて放射能計測器を購入し、福島の団体が運営する市民のための放射能測定所をサポートしている。
◆ ハイロアクション福島原発40年
福島第一原発1号機が40年を迎える2011年3月26日を機に、危険な老朽原発の廃炉と廃炉後の原発に頼らない地域社会を求めて行動しようと、2010年10月につくられた福島市民のグループと情報サイト。事故後は、現地から首都圏に向けて、「原発反対」と「子どもたちを守れ」という声を発信している。
◆ 「はっぴーあいらんど☆ネットワーク」
福島県内で活動するNPOで、『はっぴーあいらんど☆新聞』の発行、福島県内から全国へと避難・疎開を希望する人たちの支援、除染のための活動などを他団体と協力して行っている。
以上はほんの一部にすぎない。他にもさまざまな人やグループが、福島の子どもを支援するために動いている。ばらまかれてしまった大量の放射能にどう対処していくのか。それは日本中のすべての人がこれから長い時間がかけて取り組まなくてはならない大問題だ。たとえ一人ひとりの力は小さくても、それがつながり、集まれば、やがて大きな問題を解決する力になるだろう。
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