甲状腺のガンの不安を抱えた子どもたち
1998年7月4日、ベラルーシ共和国ブレスト州ストーリン地区病院。日本とベラルーシの専門医師による甲状腺ガンの早期発見を目的とする検診が行われた。
検診団が病院に到着したとき、その日検診を受ける18人の子どもたちは、廊下のベンチに母親と一緒に待機していた。普段は多くの人が訪れるストーリン地区病院だが、その日は土曜日ということもあり、検診を受ける以外の患者の姿はなかった。
夏の日差しが差しこむ検診室は明るかったが、廊下は一転して薄暗い。天井の電灯は、1つおきにしか明かりがともされていなかった。
次に検診を受ける予定なのだろうか。ベンチには座らず、検診室の入り口の前の壁に女の子が寄り掛かっている。その背後から、母親が腕をまわす。沈黙が続く。
やがて我が子の検診を終え、母親たちは互いに話し始めるが、子どもたちは黙り込んでいる。腕を組むなり、肩にもたれるなり、母子で寄り添っている姿が多い。
原田先生が患者の甲状腺に手を当ててその状態を調べ、片桐先生が超音波診断装置を使って診察する。特に異常がなければ、その場で検診の結果が伝えられる。
説明のなかの「ガンの心配はありません」という言葉が耳に残った。その言葉を受け止める子どもたちが、ガンの心配を抱えてここに来ているということに、改めて気づく。
検診の順番を待つ1人の少女に「写真を撮ってもいい?」と片言のロシア語で話かけ、レンズを向ける。少し戸惑いながらも無理して作ってくれた笑顔には、頬の辺りに緊張が残っていた。
チェルノブイリ原発事故から、12年が過ぎる。事故当時、頻繁に使われていた「チェルノブイリの放射能」という言葉は、「ダイオキシン」、「環境ホルモン」という新たな有害物質の影に隠れ、世間の間では忘れられつつある。が、今もなお、チェルノブイリの放射能は子どもたちに不安と緊張の影を落としている。
子どもたちの甲状腺に、放射能汚染の影響が最も顕著に現れた。人口1100万のベラルーシにおいて、原発事故前後、11年間の小児性甲状腺ガン患者の数を比較すると、7名だったものが508名に急増している。
この背景には、ベラルーシの風土そのものが深く関っていた。甲状腺からは、人体の代謝に必要なホルモンが分泌されるが、その際、ワカメや昆布などの海産物に多く含まれるヨウ素が必要になる。内陸に位置するベラルーシの大地では、食糧や飲料水に含まれるヨウ素が少ない。ヨウ素が欠乏する状況にあって、「甲状腺腫」(甲状腺が腫れる状態)を患う人は多く、それは事故前からベラルーシの風土病になっていた。
その大地に、チェルノブイリ原発から放出されたヨウ素131という放射性物質が振り撒かれた。ヨウ素の飢餓状態にあった甲状腺は、ガンや腫瘍の原因となる放射性ヨウ素131を急速に取り込んでしまう。特に成長期にある子どもは、その摂取量が多く、小児性甲状腺ガンの急増を引き起こした。
深刻なベラルーシの医療事情
子どもたちの甲状腺を取り巻く現状は苛酷だ。まず甲状腺ガンの早期発見に欠かせない検診の数が、ベラルーシの国内の経済悪化に伴い激減。今回ストーリン地区で行われた日本とベラルーシの専門医師による検診も日本の支援団体(チェルノブイリ支援運動・九州)の援助によるものだが、こうした海外から援助なしには、十分な検診を行うことができない状況にある。
検診の数だけでなく、その質についても問題がある。今回ストーリン地区で行われた日本の専門医による甲状腺ガンの検診は、受診者の住所や健康状態を聞く問診、直接手を当てて甲状腺の状態を診察する触診、超音波診断装置による画像診断の3部構成からなり、これらの診察を経て、甲状腺に異常が認められた場合は、「穿刺吸引による細胞診」という検査を行う。細い注射針で抜き取った甲状腺の細胞を顕微鏡で観察し、癌細胞の有無を判定するこの検査は、甲状腺ガンの検診において最も欠かせないが、ベラルーシでは、この検査が行われないケースが多い。ストーリン地区病院でも現在、この「穿刺吸引による細胞診」を行える設備も医師もいない。そのためこの検査が必要な患者は、首都ミンスクの基幹病院で診察を受けるように勧められる。しかしストーリンからミンスクまでは、気軽に通える距離ではない。旅費が支給されるわけでもなく、診断書と不安だけが残る。
ストーリン地区での検診の2日目。1人で検診に来ていた少女は、エコーによる検査で異常が確認され、「穿刺吸引による細胞診」を受けることになった。この検査では、針を甲状腺に直接刺すため、保護者の同意が必要になる。1人で来ていた少女の穿刺吸引について、その場では親の同意を得ることができなかった。「どうしようか」と検討していると、彼女は持参した個人診察記録簿を提出してこう語った。「以前、別の場所で検診を受けたとき、細胞診が必要だと言われています」そして、自ら進んで穿刺吸引を申し出た。
片桐医師による穿刺吸引が始まる。ベットに横たわった少女の甲状腺に、針が刺される。検査の結果はその場では分からない。抜き取られた細胞は、染色作業を経て、ミンスクと日本の病院で分析される。
吸引穿刺が無事に終わると、少女は日本から用意した飴玉を受け取り、病院を後にした。
菅谷昭医師のミンスクでの活動
甲状腺ガンが発見されるまでの過程も苛酷なら、子どもたちが甲状腺ガンの手術を受ける環境も同様に苛酷だ。手術後、子どもたちの喉元に残る痛々しいケロイド状の傷跡が、ベラルーシの医療事情の問題を物語る。
2年半前からミンスクに単身で移住し、国立甲状腺ガンセンターで甲状腺ガンの手術に取り組む菅谷昭医師は、「こんな感じでピンセットの先端が合わないのです」と親指と人差し指を交差させて説明した。「ここでは笑って話しても済むのですが、手術現場では1つ間違えば出血したりして大変なわけです」その他にも包帯、絆創膏がない。また鉗子、ハサミ、針、糸といった基本的な手術器具が古くなっている。
ベラルーシの医療システムが、さらに子どもたちに追い打ちをかける。ベラルーシでは、病院のランク付けを、手術の数で決める。だからできるだけ短時間で多くの手術をしなければならない。それが、「ガンの取り残し」を生み、「なかには1年に3回も手術をしている子どもがいる」というほどの高い再発率の原因になっている。
異国の地で、医療技術支援を行っている菅谷医師は、しかし「私の、もっとこうしたらいいという指摘は、できるだけ控えています。彼らが相談してくるまで、待ちます」と語る。
菅谷医師自身、実際に手術に立ちあい、「この症例は手術の必要はないのでは」と感じるときがあると言う。だが、「手術するときは、甲状腺がんセンターで定められた方針に従わなければならいのです」。
何のことか理解できずに困惑していると、菅谷医師はさらに説明を続けてくれた。「甲状腺を摘出する必要がないと私が判断しても、センターの方針にしたがって摘出しなければならないのです。ベラルーシの医師にもプライドがあります。自分の判断にもとづいて勝手なことをすれば、私などすぐに追い出されてしまうでしょう」
少しずつでもいいから継続的な支援を
甲状腺をめぐるベラルーシの医療は現在「トライアル(試行状態)」の時期にあるという。そのなかで「まずはベラルーシの医療のシステムに従い、現地の医師に信頼されるようになることが大切です」と語る。大きな手術痕をできるだけ残さない、声帯の神経を傷つけないなど、限られた条件のなかで最大限の技術を駆使する。そして医療に取り組む仲間として認められ、相談を受けるようになったとき、はじめて経験と技術が伝わる。。それが菅谷医師の志向する医療支援だ。
それは、モノや金が行き交うだけの支援とは根本的に考え方が違うだけに、多くの時間も必要とする。だから、「一時的な支援より、少しずつでもいいから継続される支援」を菅谷医師は求めている。「医療に必要な器具などはこちらで買い揃えられるようになりましたので、継続的な資金援助があれば本当に助かります」
果てしなく広がる不安
菅谷医師の活動に感動し、深く頷きながらも、その一方で、チェルノブイリの子どもたちの甲状腺をめぐる状況の苛酷さに、目の前が暗くなるような想いがした。甲状腺ガンの発見から術後の子どもたちの全生涯に渡り、果たして十分なケアがなされているのだろうか。質の高い検診を受けて早期に甲状腺ガンが発見される可能性、ミンスクで適切な手術が行われる可能性。術後、甲状腺を失った子どもたちに十分なホルモン剤が支給されている可能性。
確かなデータはないが、それらの可能性を推し量るとき、ベラルーシの子どもたちが抱えているだろういくつもの不安が、容易に想像できる。
ストーリン地区病院の廊下で検診の順番を待つ子どもたちの「自分の甲状腺にガンがあるかもしれない」という不安。あるいは甲状腺ガンセンターの手術室での子どもたちの怯え。「手術台で小さな肩を震わせて泣く子どももいる」と菅谷医師は言う。さらに術後も続くガンの再発の恐れ。
ストーリン地区で4日間に渡って行われた検診では、89名のうち3名にガンの疑いが確認された。この3名は、ミンスクで検査と手術と治療を受けなければならない。
しかし、ストーリンからミンスクまでの移動すら、ベラルーシの人々にとっては大きな生涯となるのである。バスで8時間以上、費用は片道5ドル。日帰りは無理だから宿泊費も必要となろう。平均月収が100ドルを切るこの国で、それはあまりに大きい支出となる。「お金がない」という理由で、ミンスクの検査を断念する。そんな子どもがベラルーシのどこかにいるかもしれない。
12年前にチェルノブイリから放出された放射能は、いくつもの不安に形を変えて、子どもたちの生活を脅かしているのである。
(ウインドファーム生活情報部)
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