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運動、学問、ビジネスの融合体
 ナマケモノ倶楽部、誕生前夜

こんなこといいなと、夢見て描いたビジョン。
少し遅れて、でも必ず訪れる出会いが、それを現実の世界に引き寄せる。
夢に手応えを感じたその瞬間、人はその出会いをこう意味づける。
運命的な、と。

中村隆市

忘れられない日に

 1998年11月12日、この日は私にとって、忘れられない日になりました。
 翌日に迫った国際有機コーヒーフォーラムに参加するため、ブラジルからジャカランダ農場のスタッフとブラジル有機農業の育ての親と言われる宮坂四郎夫妻、コロンビアから国際有機農業センターのラモン・スルアガ所長、そして、エクアドルからインタグコーヒーの生産者とアウキ知事が、私の経営する会社ウインドファームを訪れたのです。
ウインドファーム店舗前にて
 有機コーヒーフォーラムメンバーとウインドファームのスタッフ。ウインドファーム店舗前にて
 そこには予期せぬ未知の人が2人、同行していました。1人は、シンガーソングライターのアンニャ・ライト、もう1人は、文化人類学者の辻信一でした。この予期せぬ出会いは、私にとって運命的ともいえるほど、重要なものでした。
 辻とアンニャとゆっくり話ができたのは、東京での最後の講演が終わってからのことでした。彼らとの対話を通して、互いの共通する部分に驚きを感じました。

アンニャの物語

 アンニャ・ライトはスウェーデンに生まれ、オーストラリアで育ちました。幼い頃から「命あるものを大切にする」ことを両親から教えられ、環境運動や反核運動に関わっていた高校時代にはすでに、「自分の人生を母なる大地を癒すために捧げようと決意した」といいます。
 18歳のとき、アンニャは旅にでました。中国、シベリアを経てヨーロッパへ。そしてドイツ滞在中にチェルノブイリ原発事故が勃発。放射能から逃げるようにアジアへ向かいます。チベット、中国を経て、マレーシアへ。
 そこでアンニャはある国際会議に出席します。それは各国のNGOが熱帯雨林保護の旗を掲げて初めて結集し、国際的な運動を開始する歴史的な会議でした。
 オーストラリアに戻り、大学で演劇と音楽を学んだ後、アンニャはただちにマレーシア領サラワクのジャングルに入ります。急速に押し進められる開発により原生林は伐採され、森を奪われた先住民族は、存亡の危機を迎えていました。そして、伐採反対の運動は政府の激しい弾圧にさらされていました。
 アンニャは警察から身を隠しながら、3週間ジャングルを歩いた末に、やっと最後の移動型狩猟採集民ともいわれる森の民、ペナンの元にたどり着きます。この人々との出会いがその後のアンニャの生き方を決定づけることになりました。「ペナンの人々は底深い、本質的な優しさに満ちていました。こういう人間たちに今まで会ったことがなかった。その頃の私は人間不信に陥っていて、私たちにはこの地球という共同体に暮らしていく資格はないと思っていた。ペナンに出会って、人間にはまだ希望がある、と確信できたのです。」
 ペナンとのコミュニケーションには歌が最も効果的だったとアンニャは言います。出会って間もないころ、言いたいことがうまく伝わらない時に、彼女は自分の想いをこめて歌を歌いました。すると急に人々の表情が晴れて生き生きと輝きはじめたのです。この時に思い知らされた音楽の力が、その後のミュージシャンとしての彼女を支えています。
 森林伐採を防ぐため、伐採用道路を封鎖したことで500人以上のペナンが逮捕されました。アンニャも彼らと行動をともにしたことにより逮捕され、2ヶ月間拘留されます。
 アンニャにとってはサラワクでの牢屋での暮らしもまた貴重な体験でした。他のペナンの人たちと共に囚われの身になることで、アンニャは本当の自由というものを実感したといいます。
 初めは抑圧的だった女性看守たちと、しまいには歌ったり、マッサージをし合ったり。ある看守が言いました。「実は囚われているのは私たちの方よ」と。アンニャが釈放されて牢を出るとき、見送る女性看守たちはみな泣いていたそうです。
 サラワクを追われたアンニャはまっすぐ日本へ向かいます。「熱帯雨林を守るためには、その木材の最大消費国である日本が変わる必要がある」と確信したからです。以後、オーストラリアやサラワクとともに、日本が活動の舞台になりました。
 9年間、アンニャは日本でさまざまな環境保護活動に取り組みました。振り返ってアンニャはこう語ります。「海や山が壊されていくのを目の当たりにして、日本人は痛みを感じないのだろうか。自然が急速に破壊され、生命が衰退していくのを、日本人は平然と受け入れているようにみえる。でも古代から培われてきた人間と自然との結びつきは、今でも人々のこころの奥底で息づいているはず。この9年、環境運動は確実に広がっている。私は日本人から多くのことを学びました。日本は大変革をもっとも速く実現する必要に迫られた社会だと思う。そして、それができる能力に恵まれた社会だと思っています。」
中村とアンニャ。エクアドルにて
 中村とアンニャ。
インタグのコーヒー生産者の家族と一緒に。
  その後、アンニャは活動の拠点をエクアドルに移しました。「自分の人生を母なる大地を癒すために捧げようと決意した」アンニャにとってエクアドルはまさに癒し、守るべき場所だったのです。
 私が有機コーヒーなどのフェアトレードに取り組む契機となった出来事が2つあります。1つは水俣病、もう1つがチェルノブイリです。
 エクアドルに移り住み活動するアンニャはドイツ滞在中にチェルノブイリ原発事故に遭遇し、核の問題にも取り組んでいます。また、辻信一は水俣病の漁師との対話を長い間続けています。(「聞き書き・常世の舟を漕ぎて」参照)
 アンニャと辻と私と。この共通の土台を持った3人が目指したものの1つは、学問と運動とビジネスの有機的な結合でした。  アンニャはこれまで、環境保護の「運動」に全精力を傾け、私は「ビジネス」としてのフェアトレードに力を注いできました。そして、辻信一は「学問」を主要な舞台とする人です。

辻信一の想い

グリーンコープの前で
 国際有機コーヒーフォーラムメンバー。見学に訪れた生協の前で。
左下が辻信一。
 文化人類学者で明治学院大学の国際学部教員でもある辻信一は、授業で南北問題や開発の問題によく触れます。20代から16年間、アメリカ大陸で暮らした辻は、先住民というテーマに取り組み始めたころ、カナダの生物学者で環境運動家でもあるデビッド・スズキと出会い、1991年に帰国したとき、2人で日本を旅して「僕らの知らなかったニッポン」という1冊の英文の本を書いています。
 デビッドは日系3世だが日本語はできない、辻は父親が在日朝鮮人ということで、2人は半分日本に足を置きながら半分は外国人というスタンスでした。デビッドは、破壊されていく自然の中でいったい日本の人々は何を考えているのだろうということをテーマにすえ、辻は日本のマイノリティに目を向け、2人でテーマを少しずらしながら日本各地を歩きました。そこで辻は、民族問題や差別の問題が環境の問題と重なりあう場面に数多く出会い、自分が関わっている北米先住民の抱える問題とも通じていることを発見します。それまで長く外国に暮らした辻にとって、この旅は全く新しい日本との出会いの旅となりました。
 同じような体験を学生たちにもしてもらいたいと考えた辻は、自分がフィールドとしてきた北米や南米の先住民のもとに学生を連れていくようになります。
 先住民が暮らす自然の豊かな地域に2、3週間滞在する中で学生たちは、そうした地域のいずれもが森林破壊や環境の問題を抱えていることを知ります。同時に、自然の美しさ、不思議さ、素晴らしさを身をもって感じとり、自然と共に生きてきた先住民との交流によって、文化や環境を保護することの重要性に気づき、日本に帰ってからもそこで得たものを活かそうとします。
 しかし、いざ就職という局面を迎えると、そうした思いを生かせる仕事や職場がなかなか見つかりません。産業社会の中にその思いが埋没していく教え子たち。そんな姿を見続けてきた辻信一は、どうすればこの問題を解決できるのか悩んでいました。

運動、学問、ビジネスの融合
「ナマケモノ倶楽部」の誕生

 一方、私もそのことの重要性を長い間考えていました。新しい仕事や職場を少しでも多くしていくことはできないか?。
 例えば、ボランティア活動はとても重要ですが、現代社会の諸問題を作りだしている企業で働いて、空いた時間にボランティア活動に励むという形では、根本の問題を解決することはできません。
 企業の事業内容そのものを変えていくこと、あるいはもう一歩進んで、企業の目的を変えていく。株主や役員の利益を最優先にするのではなく、環境保護や社会的な不公平が少ない持続可能で平和な社会の創造に目的を置くことができないか。
 そして、ただそれを望んでいるだけでは変わらないだろう。まず、自分の会社(有機コーヒー社、ウインドファーム社)の内容をそれに近づけていくこと、そして、企業の変化を待っているよりも自分たちが幅広い事業分野で新しい目的を持った企業をつくっていくことの方がより現実的であると考えていました。
 そんなことを考えているときに、福岡で国際有機コーヒーフォーラムが開催され、そこに辻信一とアンニャ・ライトが参加したことに、私は運命的なものを感じます。
エクアドルを旅した学生たちと
 エクアドルを旅した学生たちと。
 運動とビジネスと学問の融合。3人が目指すその有機的な結合が具体的な形となって見えてくるのが、翌年2月に辻とアンニャが企画したエコ・カルチャー・ツアーでした。応募した8人の学生と共に私は、このとき初めてエクアドルに行き、そして、インタグコーヒーの輸入をその場で決断したのでした。
 険しい傾斜の山腹にあるコーヒー園の見学、インタグの人々との長時間の話し合い、決断に至る過程など、一部始終を見聞きしていた学生たちは、あとで私と話をして、自分たちにも何かできないかということになり、将来フェアトレードやエコツアーなどの環境ビジネスを起こして、エクアドルの人々の力になりたい、という希望を語ってくれました。
 「フェアトレードやエコ・カルチャー・ツアーの一つ一つは大きな儲けになるようなものじゃないけど、それらが相乗効果を起こして少しずつ世の中を変えていくようなビジネス、それを卒業生にも参加してもらってやろうよ!」 それから5ヶ月後の1999年7月、このツアーに参加した学生と辻、アンニャ、私が呼びかけて、「ナマケモノ倶楽部」という名の「環境保護・文化・ビジネス・運動・団体」が誕生したのです。

参考文献
グラフィケーション「自然との共生の知恵を学ぶ旅」
週刊金曜日250号「地球のために私は歌いつづける」

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