玄海原発訴訟で、脱原発を求める医師、農民、福島県民、避難者

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玄海原発訴訟第2回弁論(1)―「フクシマ」後の原発訴訟とは
(2012年9月24日 ネットアイビーニュース)

 国と九州電力を相手取って、42都道府県の約5,000人が九州電力玄海原子力発電所の操業差し止めを求めた「原発なくそう!九州玄海訴訟」の第2回口頭弁論が9月21日、佐賀地裁(波多江真史裁判長)で開かれた。福島県からの避難者や同県郡山市に住む原告ら5人が福島第一原発事故の被害などを意見陳述し、傍聴者の拍手が禁止されているにもかかわらず法廷に鳴り響いた。

<被害の中身、立証責任のあり方>

 意見陳述に先立ち、法廷では、原発の操業を差し止めが認められるために原告側が何を立証するのか、波多江裁判長の発言をめぐって、地味だが重要な攻防があった。「これから勝っていくかどうかの分水嶺」とも言える内容であり、原発訴訟史上最大の裁判は、早くも「つばぜり合い」(板井優弁護団共同代表)が始まった。

 裁判長は「原告の主張は人格権、生存権にもとづく差し止め請求と理解していますが、人格権なので生命、身体、健康の被害の危険性を具体的に立証していただく必要あるということで、よろしいですね」と確認を求め、九電代理人がすかさず、「裁判長と同じ理解なので、調書に残してほしい」と応じた。

 この日の結論は、調書に残さないことになったが、原告側の反論は、大きく2つあった。1つは、被害とは何かであり、もう1つは立証責任のあり方だった。

 原告側は、「人格権といっても、生命、身体、健康に限定されない。たとえば、避難して、生命、身体、健康に被害がなくても、人格権の被害は起きている」として、今後詳しく主張立証していくとした。東京電力福島第一原発の事故後、被害を避けるために避難した人々は、人格権が侵害されていないとなれば、フクシマの被害実態とかけ離れてしまう。

 また、原発の危険性について、何をどのように立証するか原告側の考え方があるので、その内容は今後主張立証していくと反論した。

<判断の枠組み 従来通りか再構築か>
 一般論としては、裁判長の整理はおかしくないが、敏感に反応した九電側の態度からは、”従来どおりの原発訴訟をやって原告の請求を棄却せよ”という考えが透けて見えた。原告側と被告九電側との攻防であると同時に、別の角度から見れば、従来の裁判所の判断の枠組みとの戦いでもある

 原発訴訟は、行政訴訟の伊方原発訴訟(1973年提訴、松山地裁)、民事訴訟の女川原発訴訟(1981年提訴、仙台地裁)以来、主なものだけで十数回以上起こされてきた。そのなかで最高裁は伊方原発訴訟で、安全審査の資料がすべて国にあるのを踏まえて、安全かどうかまず国が立証するという判断の枠組みを示した。ただし、現実には、”国の審査をパスしたから安全だ”と国側が言うと、原告側が危険だと立証するという形になり、国の立証責任が矮小化されてきたといえる。

 しかし、福島第一の事故が実際に起き、国の安全審査が妥当性を失い、当事者からも「原子力の規制のあり方があまりにも形骸化していた」(9月18日、斑目春樹原子力安全委員長)と述べており、国の審査をお墨付きにした立証のあり方は、現実にそぐわない。

 「国側の安全立証責任を簡単に通過させてはならない。立証責任とハードルを、福島の事故をもとに再構築しないといけない。市民の生命、健康を守るために戦いを組み立てていく」。東島浩幸弁護団幹事長は語る。

<避難者や福島から被害の陳述>
 この日の口頭弁論は、第1次から3次提訴までの原告4,252人が対象。傍聴席約70席に原告250人、弁護団ら50人の合計300人が参加したため、原告側は第1回に続き、法廷に入れない原告らのために佐賀市内の別会場で「模擬法廷」を開いた。

 佐賀地裁の法廷で意見陳述したのは、福島県いわき市から福岡県に避難してきた金本友孝さん(51)、福島県郡山市在住の人見やよいさん(51)、佐賀県唐津市の農業経営者麻生茂幸さん(62)、佐賀市の医師満岡聰さん(53)の4人の原告と、弁護団共同代表の板井優弁護士。

意見陳述が明らかにした「フクシマ」の被害の一端は、傍聴者らの胸を打つとともに、「原発ゼロ」の目標(革新的エネルギー・環境戦略)が閣議決定されず形骸化を懸念されるもとで、どうやって原発をなくすのか、そして、福島第一事故後の原発訴訟のあり方を問いかけた。

玄海原発訴訟第2回弁論(2)―思い出のある故郷を離れて
(2012年9月25日)

佐賀地裁で9月21日開かれた「原発なくそう!九州玄海訴訟」第2回口頭弁論では、福島県いわき市から避難した牧師の金本友孝さん(51)と同県郡山市在住の人見やよいさん(51)の2人が、東京電力福島第一原発事故の被害を訴えた。

 全国の都道府県のなかで3番目という広大な面積を持つ福島県。福島第一原発から海岸沿いを約30km南下すれば、いわき市がある。郡山市は、原発の西約50kmにある。人口では、福島県内1位が、いわき市、次いで郡山市と続き、県都福島市は3番目となっている。いわき市は、石炭産業から新産業都市指定を経て成長を遂げた東北第一の工業都市、郡山市は交通の要所でもあり商業都市と、おおざっぱに性格分けできる。

<迫る「死の恐怖」に何もできず>
 「それまでの生活は完全に破壊された」。金本さんは、意見陳述で、そう表現した。

 妻(45)と、19歳、15歳、12歳の3人の子と一緒に、いわき市から妻の実家のある福岡県に避難した。口頭弁論後、金本さんは取材に対し「私たちに死の恐怖が迫ったのは事実です。一度死にかけたのに、原発事故をまた繰り返すのはおろかだ。原発をやめなさいと言うべきだ」と語った。

 法廷で陳述した「死の恐怖」――。2011年3月11日、金本さんの自宅も大震災で家のなかがめちゃくちゃになり、ガスも水も止まり、あちこちで火事が起き、救急車や消防車のサイレンが鳴り響くなか、始まった。

 3月12日午後4時頃、「原発が爆発したぞ!今すぐ逃げろ!」というメールが友人から届いたという。国、自治体、東京電力から正式な情報はまったくなく、「死の恐怖」が襲ったものの、「逃げたくても、道はふさがれ、ガソリンもなかった」

 金本さんは「いつ大爆発が起こるのか、今か、今日か、明日かという不安」があるのに何もできない。逃げ道はなく、死を待つだけと感じた。その恐怖を、「墜落する飛行機に乗っているようだった」と振り返る。3人の子どもたちに、「せめて、苦しまないで死ねるように祈りなさい」と話した。そのときの「もちろん死んでほしくなんかない。せめてもの親の気持ち」を、裁判官に訴えた。

<命の責任はとれない>
 「死の恐怖」のなか5日間が過ぎ、3月17日、ガソリンが手に入った。しかし、「家のなかにいた方が放射能の影響が少ないのではないか、ガソリンが切れて立ち往生するのではないか」と、迷いがよぎる。仕事のあてもなく、3人の子どもを抱えて食べていけるのか――。

 しかし、葛藤よりも「死の恐怖」が上回り、避難を決断した。「この頃、いわき市民の約3分の2が避難したと聞いている」と陳述した。

 避難者優先で車線が確保された常磐自動車道を走って東京まで避難したが、原発が爆発する不安から南へ南へと避難し、ついに3月25日に福岡県にたどりついた。幸い、牧師の仕事が見つかり、いわき市に戻らないことを決めた。子どもたちにとって生まれてからずっと生活し、すべての思い出があるふるさとを離れて…。「放射能に汚染されているところに(子どもたちを)行かせるわけにはいかない」(金本さん)。

 「子どもたちが浴びてしまった放射線でどんな影響が出るか、不安で仕方がない」という金本さんは、法廷でこう訴えた。

 「九州まで避難したが、ここにも玄海原発がある。原発の影響がないところはない。子どもたちを危険にさらすのはやめてください。『安全だ』『責任を持つ』と言うが、神様でない限り命の責任をとれるわけがない。再び起こる悲劇を防ぐには、今原発をなくす決断をするしかない」

<住み続ける人にも続く被害>
 東京電力福島第一原発事故により放射能で高濃度に汚染され、居住・立ち入りが制限されている警戒区域など避難指示区域からの避難者は11万3,000人とされている。避難者は、避難指示区域以外を含めると福島県全体で、15万8,000人にふくれあがる(いずれも福島県発表。2012年1月時点)。

 いわき市も郡山市も、避難指示区域ではない。しかし、原発事故前に人口34万1,000人だったいわき市は、9月1日時点で1万人以上減少した。事故後3カ月間で県外への転出が5,000人以上に上った。郡山市も人口流出は止まらず、33万9,000人から32万8,000人に落ち込んでいる。住民票を移動していない避難者は、もっと多いと見られる。

 それぞれ市のホームページを見れば、小中学校、公民館、公園などの空間放射線量が連日公表されている。その数値は、たとえば、ある小学校の校庭で毎時0.3マイクロシーベルト、公民館では0.8となっている。

 東京電力の技術者だった小野俊一医師によれば、原発施設内で汚染を隔離する必要があるC区域(1平方メートル40キロベクレル)の汚染濃度を空間線量率に換算すると、0.13マイクロシーベルトになるという。

 福島第一原発からは、放射性物質が大量に放出され続けている。東京電力の発表(9月24日)でも、大気中に放出している放射性セシウムは今でも毎時1,000万ベクレルに上る。

 避難した人にも、住み続ける人にも、原発事故の被害は続いている。

玄海原発訴訟第2回弁論(3)―「福島」を返してください
(2012年9月27日)

「原発なくそう!九州玄海訴訟」の3次訴訟原告、人見やよいさん(51)は、東京電力福島第一原発事故当時、福島県郡山市で、両親と犬1匹といっしょに暮らしていた。今も郡山市に住むが、今年2月、人見さんの父親は亡くなって、母親(77)と2人暮らしだ。佐賀地裁での口頭弁論(9月21日)では、避難を決断できなかった葛藤を述べ、「一刻も早く遠くへ」という原発事故のセオリーを生かすことができなかった後悔を語った。

 人見さんは口頭弁論後の報告集会で、「泣かずに最後まで話そうと思っていたんです。でも、金本(友孝)さんの話で去年のことを思い出して、こみ上げたまま話し始めました」と語った。

 法廷では、何度も涙ぐみながらの意見陳述となり、傍聴席からもすすり泣く声が聞こえ、ハンカチで目を押さえる姿があった。

<寝たきりの父を連れて逃げることもできず>
 人見さんの父は、数年前に脳出血を起こしてからベッドに寝たきりでほとんど動くことができなかった。「動けない父を連れて、どうやってどこに逃げればいいのかわからず、かかりつけの病院から離れることも不安で、そもそもガソリンが残り少なかった」

 避難地区は日を追うごとに広がり、友人たちが他県に避難していくのに接し、「血の気が引くようだった」と陳述した。家族を連れて動けない状態に、「直ちに健康に影響はありません」「安全です」との報道にすがりたい気持ちだったという。

 寝たきりだった父は意識がはっきりしていて、ニュースを見て、原発事故も知っていたが、事故や避難の話は一言もしなかった。「もしかして父が自分のことを避難の足手まといと考えているかもしれないと思うと、それを父の口から聞くことが怖くて、わたしから避難の話をすることはできませんでした」と法廷で述べた。

<一見平穏な生活に「静かな恐怖」>
 人見さんは意見陳述で、原発事故後の福島を「一見平穏に見えながら、静かな恐怖に包まれている」と表現した。樹木の下は放射線量が高く、春が来ても桜の木の下を歩くのがはばかれること、人見さんが入手したガイガーカウンターの初期設定では毎時0.3マイクロシーベルト以上で警告音が鳴り、それでは鳴りっぱなしになるので1.5マイクロシーベルトに下げて使用していること、すべての公民館に1台ずつ食品の放射線測定器が設置されていること…。

 「どこまで注意すればいいのか。いつまで不安でいればいいのか。チェルノブイリでは今も『計って食べる』というのが日常だそうですから、この不安は一生続くと覚悟しています。みんな、将来への不安を抱えて疲れきっている」(人見さん)。

 放射能による影響への不安を抱え、女子高生が「どうせ長生きしない」とか「私は子どもを産んでいいの」という声が出る状況を紹介し、「こんな思いは福島でおしまいにしてほしい」と語った。

<「山は青きふくしま 水は清きふくしま…」>
 「山は青きふくしま 水は清きふくしま 忘れがたきふくしま…」。
 人見さんは、「故郷(ふるさと)」という歌の「ふるさと」の歌詞を「ふくしま」に替えて読み上げた。「さよなら原発集会」でも読み替えて歌うことがあり、涙が止まらないという。

 その福島は、2011年3月11日以降にカタカナで書かれることが多くなった「フクシマ」ではないことは、意見陳述を聞いた者にはよくわかった。

 人見さんは、「福島の美しく、海や山の実りに恵まれた生活、10年後も20年後も100年後も平穏に暮らせるはずの生活は失われた」「まだ汚染されていないところは大事に残してほしい」という願いを語り、涙声でこう訴えた。

 「原発事故で失われたものは、何よりも大切なふるさとです。私の一番の望みは、元の福島です。福島を返してください」

 人見さんの意見陳述が終わると、傍聴席から拍手が起こった。それは、人見さんだけでなく、意見陳述した4人の原告全員への拍手でもあったように思えた。

玄海原発訴訟第2回弁論(4・終)―「脱原発・脱ケージ」の挑戦
(2012年9月28日)

 9月21日の佐賀地裁での意見陳述で、「原発なくそう!九州玄海訴訟」1次訴訟原告で佐賀市の医師満岡聰さん(53)は原発事故における災害弱者の問題を指摘し、基本的人権を脅かす玄海原発の操業差し止めを求めた。満岡さんは、原発事故による死亡者は放射線被曝に限らないとして、適切な避難ができずに亡くなった例として、双葉病院事件をあげた。

<災害弱者らの「防ぎえた死」>
 福島第一原発から約4キロの位置にあった精神科の双葉病院入院患者340人と介護老人保健施設入所者98人が避難に当たって、必要な医療的引き継ぎが行なわれず搬送中・後に21人が死亡したと紹介し、その教訓を「学ぶべきことは、寝たきり、精神病や認知症などの患者、災害弱者たちの避難体制が確立していないと、餓死者や凍死といった『防ぎえた死』が起こるということだ」と述べた。

 「原発の半径30キロメートル以内のどこに何人の自力で動けない寝たきり老人、精神病患者や認知症患者、障がい者がいるか把握しているでしょうか。移送する手段や移送先は確保されているでしょうか」と、満岡さんは国と電力会社に問いかけた。

 「移送先に医師や医療スタッフ、介護スタッフ、特別食や薬の供給、検査体制、入院機能の確保が必要だ。避難時に交通渋滞など予想される混乱のなかで重症の病人や障がいを抱えた災害弱者の命が危険にさらされることは、福島の例を見ても明らか。残念ながら日本の災害医療は原発災害のような大規模な災害に有効に機能できない」と指摘した満岡さん。「私が普段診療している患者さんたちは災害弱者であり、原発を存続させると患者さんの命を守れない。「『防ぎえた死』を回避できない以上、原発の運転を行なってはいけない」と訴えた。

<農地は生活、人生のすべて>
 2次訴訟原告の麻生茂幸さん(62)は、玄海原発から約18キロメートルの佐賀県唐津市で「(有)みのり農場」を経営している。農場は、玄海国定公園の真ん中にある。先祖代々農業を営み、現在は、妻、二男家族、長女家族、三男、そして従業員が37人。1万6,000羽の鶏を飼い、田んぼ9反で米作、6反の畑で野菜を作る。観光客を相手に鶏飯やプリンを販売している。

 「地域循環型農場をめざし、食の『安心』『安全』『おいしい』をめざして、米や野菜の有機栽培と鶏の平飼い(放し飼い)を行なっている」と述べ、試行錯誤を繰り返しながら約30年かかって軌道に乗ってきたと話した。

 農業が軌道に乗るには、土づくり、コミュニティづくり、販売・流通の確保など経営基盤をつくるには長い年月が必要だという。「放射性物質に汚染され表土を除染と称して定期的にはぎ取っていたら農業ができない。表土にこそ様々な微生物がいて土を肥沃にしてくれる。放射性物質わずかな放射性物質がもれただけでも甚大な被害を受ける」。

 「福島第一原発事故クラスの事故が起きたら、『警戒区域』に指定され、立ち入ることができなくなり、愛情をもって育てている1万6,000羽の鶏を見捨てて避難せざるを得ないでしょう。農家が農地を失うことは、生産の拠点のみならず、財産、人間関係、生活の基盤、生き様のすべてを失うことだ」「私の家族の生活、人生のすべてといえる農場、先祖代々受け継ぐ土地を守るためには、原発の再稼動を許すわけにはいけない」と訴えた。
 
<経済効率優先への反省>
 弁論後に開かれた報告集会で、麻生さんは、「自然と人間が共生する拠点をつくりたい」と語った。

 「脱原発」は生き方の選択だとも言われている。原発推進派は、原発を稼動させないと停電や経済・産業の衰退を招くと脅すが、「脱原発」は「イモと裸足」の”原始生活”を求めているわけではない。逆に、ウォール街のオキュパイ(占拠)運動が告発したように、経済の”発展・成長”で富裕層の資産は増加しても”99%”の民衆には富ではなく貧困をもたらす経済格差の現状が浮かび上がっている。「原発ゼロ」の先に、新しい経済のあり方や豊かな生活があるという考えがある。

 麻生さんは、「経済効率という(考えの)最先端が原発だと思う。私も正直言って生産効率から鶏をケージ飼いしてきた」と、反省を語った。ケージ飼いは、鶏を鶏小屋のなかのケージ(かご)に仕切って飼う方法で、日本の養鶏場のほとんどが採用している。麻生さんも、1万6,000羽の鶏のうち、平飼いしているのは6,000羽だという。「ヨーロッパでは、鶏のケージ飼いは禁止されている。しかし、私もケージ飼いを廃止できなかった」

 「反省を踏まえて、今度の意見陳述をさせてもらうなかで悩み、これを機会に結論を出しました。脱原発・脱ケージをやろう」と麻生さんが決意を語ると、会場の大ホールは拍手に包まれた。

 麻生さんは続けてこう発言した。「超ローコストで最高クオリティの放し飼いの玉子ができる。新しい日本の農業、自然と人間が一体の最先端の農業です。アグリトピアをつくりたい。知恵と力を出し合って、単に脱原発でなく、生産から生活を含めて、新しいスタイルをつくっていきたい」。

みのり農場
(中村コメント:こうした生活や仕事を見直し、転換していく動きを応援し合って、世界を少しずつでも変えていきたい。)

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