今日、投票日の東京新聞 ― 全国紙になってほしいなあ。
2年後の定年後について尋ねると「生きているかどうかも自信がありません」との答え。聞くと、次男が障害がある状態で生まれ、3カ月で退院しながら半年で亡くなった経験から、「生き物はいつ死ぬか分からないと心底思っている」と打ち明けてくれた。この「決定的に私に教えてくれた」という死が、小出さんを強く、優しくしたのではないかと思った。
◆ 原子力は間違い やめるしかない
小出裕章 京都大原子炉実験所助教
(2012年12月16日 東京新聞)
東京電力福島原発事故が起きてからは、各地の講演会に引っ張りだこの京都大原子炉実験所(大阪府熊取町)助教の小出裕章さん(63)だが、それまでは少数派の一人として反原発を訴えてきた。足尾鉱毒事件に半生をささげ、来年没後100年になる政治家田中正造を最も敬愛する人物に挙げる。反骨の学者はどうやって生まれたのか。(稲垣太郎)
●田中正造を最も敬愛しておられます。
大学に入ったころは日本の公害問題が顕在化した時代でもあった。水俣病も猛烈に悲惨な状態になっていたし、日本の公害というものがどこで、どんなふうに起きて、広がって、どんなふうになってきたのかということに無関心ではいられない時代だった。公害の問題をあれこれと調べて勉強していたのですが、水俣病とかイタイイタイ病とかのずっと前に足尾鉱毒という問題があったということに突き当たった。自分で調べ、正造さんに巡り合いました。
生き方そのものがあまりにも強烈で。会社、大学でもいいですが組織に入ると組織の論理というものが必ずあるわけで、組織の論理は、その社会の体制の論理にほとんどが組み込まれている。正造さんが生きた時代だって、明治大正の時代で、日清、日露戦争を戦って、日本が強国になることが大切なんだという論理があった中で足尾鉱毒という問題が起きた時に、組織や体制の論理ではなく、自分の論理をきちんと持って、忠実に生き抜いたのです。
●正造の生まれ育った栃木県佐野市での講演では、正造が心の支えになったと話されました。
正造さんは栃木県の県議会議員になったり、議長になったり、第一回帝国議会の議員になったりと出世街道まっしぐらで人生を歩んだけども、政治や議会というものが人々の幸せの妨害になっていると気付き、議会を捨て、自分のそういう人生を捨てたんですね。その後は自分の信念に従って生きるという生き方を選択し、死ぬまでそうしたわけです。
私も初めは原子力に夢を持ってしまったけれども、それが間違いだと気付いた以上、捨てるしかなかったし、捨てて以降はとにかく自分の思うところを忠実に生きるしかないと思っているので、正造さんが示した人生を生きたいと生きています。
●原子力との出会いからお聞かせください。
中学、高校の時に東京で広島、長崎の原爆展がしきりに開かれ、何度も見に行く機会があった。原爆というのはひどいものだなと思ったし、同時に猛烈なエネルギーを出すものだなと頭に刷り込まれた。当時は原子力に夢をかけていた時代でした。例えば手塚治虫さんが鉄腕アトムを描いていて、アトムの妹はウランちゃんという、そんな時代だった。
原子力を軍事的に使えば悲惨なことになるけれど、平和的に使えばきっと役に立つと思い込んでしまった。それで大学(東北大)に行くときに原子力を選んでしまった。とにかく原子力をやりたいという思いに凝り固まっていた。学生服を着て、授業は1時間も欠席することなく受けた。
●その後、転機が来たんですね。
1969年1月の東大安田講堂の攻防戦を生活協同組合の購買部に置いてあったテレビで見て、今、大学で起きていること、大学闘争でやっていることが何なのかを考えざるを得なくなった。ちょうどそのころ、東北電力が原子力発電所を造る計画を発表した。原子力をやりたい私としては歓迎しましたが、建設場所は電気をたくさん使う仙台という大都会ではなく、女川という本当に小さな漁村に建てるということになった。女川の人たちが「何でだ」という声を上げたんですね。
日本中、世界中が原子力の夢に浮かれていて、原子力発電はちゃんとやれば安全だし、猛烈に役に立つものだという宣伝ばっかりだった時に、女川の人たちは「どうして自分たちの所に持ってくるのか」と疑問の声を上げたのです。
どうしてなんだろうという疑問が私の中に起こった。他方で大学闘争があり、他方で原発建設という計画があり、大学闘争に向き合わざるを得なくなって。一体何をしているんだろうかと考えて、たどり着いた結論が、自分やろうとしている学問が社会の中でどういう意味を持っているのか考えるべきだというのが大学闘争の問い掛けだったと気付いた。
自分がやろうとしている学問は原子力なわけだから、それの社会への表れ方、つまり、原子力発電がどういう意味を持っているのか答えざるを得なくなった。なぜ原発を大都会の仙台ではなく、女川という過疎地に建てるのかという答えを探し始めた。だが東北大工学部原子核工学科もそうですけど、原子力を推進するための教育をする場所だったので、教員は皆、原子力はよいものだという教育しかしてくれなかった。いくら聞いても、どうして仙台ではなくて女川なんだということに答えられない。そうなると自分で勉強するしかないということになった。
ちょうど当時は米国で原子力に対する科学的、専門的な問題の洗い出しが出てきたころで、米国から入る情報を入手して勉強した。そして工学部の教員たちと論争を始め、たどり着いたのが、原子力発電には都会では引き受けることができないほどの危険を持っているが故に過疎地に押しつけるのだという結論だった。そう決してしまうと私としてはそんなものに人生をかける気はしないし、そんなものを許すこともできないと思うようになり、以降、原子力発電をやめさせなければならないという生き方をすることになった。
●大学院を経て助手として就職した京大原子炉実験所では助教授や教授の公募に応募しなかった。
昇進のことですか。私を採用する時も公募という制度で採用されているのですね。この実験所の教員の採用は全て公募です。助教授も教授も公募して、応募した人の中から誰かを選ぶ。私自身は助教授や教授になりたいわけでもないし、自分のやりたいことができればいいのであって、組織の中で上のポストに就いて、人を動かすという役割はしたくなかった。だから一度も応募をしないで今日まできています。
教員の独創性を重んじるという京大の特殊性と、職場の特殊性が合わさって、誰かから命令されたり、迫害されたりということが全くないままここにいます。
●大学生の時の決意をずっと今まで貫けたのはなぜでしょうか。
例えば正造さんだったら何度も投獄されるなどものすごい困難の中で貫いたが、私は何の苦労も、組織からのバッシングや命令を受けたこともなく、国家から逮捕されたこともなく、この研究室で好きなことをやることができる。何の困難もないぬるま湯のような状況の中でずっと生きてきてしまって、貫くも何も、ないのです。最高の居心地の中でやりたいように生きてきた。それだけです。
【こいで・ひろあき】
1949(昭和24)年東京都台東区で衣服製造販売業を営む父親の次男に生まれる。開成中、高校を経て、68年東北大工学部に入学。74年に同大学院工学研究科修士課程を修了し、京都大原子炉実験所に助手として就職。四国電力・伊方原発設置許可取り消し訴訟の住民側証人となり、各地の原発周辺の放射線量の測定を始める。
東京電力・福島第一原発事故後の2011年5月、参院の行政監視委員会に孫正義ソフトバンク社長らと参考人として出席し、原子力行政の行き詰まりを指摘した。著書は「隠される原子力・核の真実」(創史社)、「いのちか原発か」(共著、風媒社)など多数ある。
【インタビューを終えて】
取材を申し込んだメールの返信には「毎日を戦争のように過ごしており」とあった。田中正造の大きなパネル写真が飾られた研究室は、極力電気を使わないように照明が落とされ、パソコンの画面だけが光っていた。
2年後の定年後について尋ねると「生きているかどうかも自信がありません」との答え。聞くと、次男が障害がある状態で生まれ、3カ月で退院しながら半年で亡くなった経験から、「生き物はいつ死ぬか分からないと心底思っている」と打ち明けてくれた。この「決定的に私に教えてくれた」という死が、小出さんを強く、優しくしたのではないかと思った。