チェルノブイリ事故直後の放射線障害と10年後の状況

チェルノブイリによる放射能災害
国際共同研究報告書

事故直後の放射線障害と10年後の状況 から抜粋
アラ・ヤロシンスカヤ

ヤロシンスカヤ・チャリティ基金(ロシア)

 
 1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故ののち,ソ連政府は直ちに事故そのものと,事故が住民と周辺環境に及ぼすであろう影響を隠蔽するためのあらゆる措置を講じた.つぎからつぎへと「機密」印のついたソ連政府の「チェルノブイリ原発事故,とくに被災住民の健康に関する情報の機密化」令,ソ連保健省,同国防省の「住民,リクビダートル(事故処理作業従事者),軍人の被曝線量レベルの機密化」通達が出された.これらの通達で,医療従事者に対して,軍人・リクビダートルの診療カルテに「急性放射線障害」とは明記せずに,別の言葉に置き換えるようにとの指示が与えられた.

 長年にわたって,機密文書の存在は否定された.しかし1991年,ソ連が崩壊したまさにその年になって初めて,筆者はソ連共産党中央委員会政治局事故対策作業グループの会議の秘密議事録を入手した1.議事録にはチェルノブイリ原発事故発生直後に放射線被曝した人間の数,病院収容された者の数が報告に基づいて記録されている.

事故対策作業グループの秘密議事録

1986年5月4日のシチェーピン(ソ連保健省第1次官)による「放射線被曝した住民の病院収容と治療」に関する報告がこれに関する第1報である.「5月4日現在,合計1882人が病院に収容されていることを了承.検査をうけた者の総数は,3万8000人に達した.子供64人を含む204人に,いろいろな程度の放射線障害の症状が現れている.重体患者18人である.ウクライナ共和国の病院では,被災者の収容のために1900床が割り当てられた.ソ連保健省と全ソ労働組合中央評議会の協力で,軽症患者の収容のためにモスクワ郊外ミハイロフスキーの特別サナトリウム,オデッサ市,エブパトーリヤ市のサナトリウムにおいて合計1200床が割り当てられた.キエフ郊外の保養施設に6000床,ピオネール・キャンプに1300床が用意された」.

1986年5月5日,「病院収容者の総数は2757人に達し,その中には子供569人が含まれている」というシチェーピンの報告を了承.「放射線障害が現れた者は914人,そのうち18人が重体である」.

1986年5月6日,「5月6日9時現在,病院収容者数は3454人になった」というシチェーピンの報告を了承.「そのうち2609人が入院治療中であり,その中には幼児471人が含まれている.確かな情報によれば,放射線障害が現れた者は367人,うち子供は19人となっている.そのうち34人が重体である.モスクワの第6病院に入院治療中の者は179人で,その中には2人の子供がいる」.権力のしでかした厚顔無恥は秘密文書のつぎのような記述にも表れている.「モスクワ第6病院においてアメリカ人の医師が働いていることを考慮し,当該病院において治療中の病人の数と病状について適切に発表する,というソ連保健省の提案を承認する」.もし仮にアメリカ人スタッフが働いていなかったら,世界の人々は永遠にそこで幾人のチェルノブイリ原発事故被災者が治療されたのか知ることはなかっただろう.

1986年5月8日,「この1日間で子供730人を含む2245人が追加入院した.入院治療者数は5月8日10時現在,5415人であり,その中には1928人の子供がいる.放射線障害と診断された者は315人である」.

1986年5月10日,「この2日間で4019人が追加入院した.その中には子供2630人が含まれている」というシチェーピンの報告を了承.「入院して検査および治療をうけている者は8695人で,そのうち238人に放射線障害の兆候がある.その中には子供が26人いる.この1日で2人が死亡し,33人が重体である」.

1986年5月11日,「この数日間に495人が追加入院した」というシチェーピンの報告を了承.「病院で治療および検査をうけている者は8137人で,そのうち急性放射線障害と診断された者は264人である.重体患者は37人である.この1日間で2人が死亡」.

1986年5月12日,「この数日間に,主としてベラルーシで,2703人が追加入院した」というシチェーピンの報告を了承.「678人が退院した.入院して検査および治療をうけている者は1万198人である」.

1986年5月13日を境にソ連保健省第1次官シチェーピンの報告の中の入院者数は急速に減少し,病院から退院する者の数が増加する.

1986年5月26日を境にして,議事録中のチェルノブイリ原発事故による被災者の入院状況に関する報告は不定期になり,会議のたびにはとりあげられなくなる.

1986年6月2日,「入院して検査および治療をうけている者の数は3669人」というシチェーピンの報告を了承.そのうち放射線障害と診断された者は171人.6月2日現在,死亡者総数は24人である(この他に事故発生直後に亡くなった者2人).重体患者はである23人である」.

ここで疑問が持ち上がる.いったい何故に入院している者の数が1万人を上回ったのちに,これほど急速に人々の退院が始まったのであろうか? この問いに対する答えをわれわれはこの秘密議事録の中に見出すことができる.

「機密.議事録9号.1986年5月8日.ソ連保健省は,住民の放射線被曝許容基準の新基準値,すなわち従来値の10倍引上げを承認した.特別な場合には,従来値の50倍にまで,これらの基準値を引上げることも可能である」.さらに「かくして,この放射能状態が2年半続いても,老若男女すべての住民の健康は保証される」と.こうした基準値は妊婦にまで適用された.

このようにして,チェルノブイリ原発事故による被曝の治療のために入院した1万人以上の同胞は,新基準値の適用後,一瞬にして自動的に健康体になり,病院から退院させられたのである.機密文書中の急性放射線障害にかかった者の数の激減がこのことを裏付けている.また共産党中央委員会政治局のチェルノブイリ事故対策作業グループのその後の会議に被災者の病院収容に関する情報がまったくでてこないことからもこの事実が確かめられる.いうまでもなく,ソ連共産党政府は放射線被曝した者の数の真の規模を隠蔽するがために,放射線許容基準値を10倍から50倍につり上げたのである.この目論見はかなりの線で成功した.

しかしながら,ソ連における民主的改革につれて,チェルノブイリ原発事故後の住民の被災の規模に関する真相はしだいに明らかになりはじめた.1991年,ソ連最高会議の公聴会で,生物物理学研究所の所長でアカデミー会員レオニード・イリイン氏(汚染地域住民の健康被害に関する真相を隠していた一人である)は,著者を含めた満場の代議員から浴びせられる質問と突きつけられた事実を前に,「160万人の子供たちがわれわれを憂慮させるほど大きなレベルの被曝をうけていること,また今後どのような対策を取るべきなのか,この問題を解決しなければならない.もしも35年間7レムまで下げるとすれば,一般的に困難な状況の中で移住が想定される人は,16万6000人ではなく,その場合には,この数字を10倍に増やさなければならない.つまり150万人以上の移住が問題になるのだ.社会はこのような措置がもたらす,すべてのリスクと利益を天秤にかけなければならない2」と認めざるをえなかった.彼が心配しているのは住民の健康でも,事故の真の被害状況でもなく,ただ単にこの問題の経済的な側面についてのみである.ソ連はこれだけの巨大な数の住民を移住させうる経済状態になかったのである.それゆえに,政府関係者は国民から彼らの健康に関する真相を隠蔽したのである.

10年年後の人々の健康状態

事故後10年がたって,良心的な学者によって行なわれた調査結果は驚くべきものであった.世界保健機関の評価によれば,事故処理作業に従事したリクビダートルは80万人である.ロシアの学者の評価では60万人とされている.正確な数字は誰一人として知らない.というのも,すでに1989年に私が入手した機密文書に書かれていることだが,「1989年より,ウクライナ共和国保健省の命令によって,1988年1月1日以降に事故処理作業に従事した者を登録に加えることが禁止された」からである.それにもかかわらず,世界保健機関が伝えている通り,リクビダートルの間では,発病率と死亡率が増加している.彼らのかかっている主な疾患は自律神経失調症,心臓の疾患,肺ガン,胃腸の疾患,白血病である.ウクライナの公式データでは,チェルノブイリ原発事故後の10年間で約8000人のリクビダートルが死亡した.ロシアの公式データでは,この10年間で2000人のリクビダートルが死亡している.新聞報道によれば,この数は5万人にも達する.

ベラルーシ保健省の報告によれば,同国でもっとも汚染されている地域では,事故前に比べて,肺ガン,胃ガン,泌尿器系の疾患を含む発病率全体が51%増加した.

ウクライナの公式データによれば,チェルノブイリ原発事故後の10年間で,事故の影響で14万8000人が死亡した.

ウクライナの子供たちの状況はきわだっている.ウクライナ保健省付属小児・産婦人科学研究所の統計資料は,放射能汚染地域に居住している子供たちの発病率が事故前に比べて増加し,また現在も増え続けていることを示している.同時期にウクライナ全体では発病率は6%低下しているにもかかわらずである.

一部の汚染地域では事故後の10年間で主な病気の発病率が1.5倍~2倍に増えた.ひどく汚染された地域では,内分泌系の疾患,血液関連疾患,造血器官の疾患,先天異常,腫瘍が2~3倍に増加した.なかにはこれらの疾患が全ウクライナ平均値の14~20倍に達する地域もある.小児の甲状腺ガンの発病率は激増した.1986年までは年に2~3例観察されていたものが,1989年にはウクライナで小児甲状腺ガンが200例発見されたというふうに.

放射能汚染地域で小児にもっとも頻繁に見られる病気は,1,2段階の甲状腺肥大,消化器官の疾患,カリエス,鼻咽頭の疾患,神経系の疾患,貧血,自律神経失調症,呼吸器官の疾患,心臓の疾患,アレルギー性疾患,くる病である3.

ウクライナでは出生率が1986年の1000人当り15件から11.4件に低下した(死亡率は1000人当り13.4件である).ウクライナのキエフ州,ジトーミル州,チェルニゴフ州,他地域(合わせて11州)の75の放射能管理地区では事態はとくに深刻だ.これらの地域での子供たちの死亡率の数値は全ウクライナ基準値の1.6倍~2倍に達している4,5.

小児・産婦人科学研究所のデータでは,妊婦の検査によって妊娠の困難,異常出産などの増加が示されている.貧血や妊娠中断の危険が1.5倍~2倍に増加している.すでにチェルノブイリ原発事故後の1年間に出産時の出血例が2倍見られている(各々3.5% 7.5%).近年,この数値は9.2%に増加している.さらに,高汚染地域に居住している妊婦に,心臓・循環器系の疾患,肝臓の疾患,神経系の失調症の数が増加している6.

妊婦の35%に,胎児の成長の遅れが観察されている.このことは胎児の甲状腺機能が悪化している可能性を示している.

最近3年間でウクライナのジトーミル市の子供の健康データは著しく悪化した.ジトーミル市の医療関係者の報告によると,未熟児の生まれる割合が増加した.生後1年未満の幼児の2人に1人が生命の危険にさらされている.チェルノブイリ原発事故当時に生まれていた子供のうち,健康とみなされているのはわずか38%だけである.子供たちの発病率は27%も増加した.

小児脳性麻痺,腫瘍疾患の子供のグループが著しく増加した.1992年から1994年にかけて,ジトーミル市では脳腫瘍の子供が毎年2人記録され,94年には8人になった.ジトーミル市の子供の間で,甲状腺機能亢進症,自己免疫甲状腺炎が共和国平均の4倍も記録された7.

ウクライナの首都であるキエフ市の子供たちも,放射能の最初の直撃により被曝をうけた,特別なグループである.14歳までの子供の発病率は1000人当り1554.5件で,ウクライナの全国平均は1308件である.個別の病気を比較すると,キエフ市の子供の精神的障害は1000人当り40.2件(ウクライナ全体30.0件),呼吸器系疾患995.4件(ウクライナ全体743.1件),慢性気管支炎8.4件(ウクライナ全体4.7件),気管支喘息4.6件(ウクライナ全体2.8件)で,さらに消化器系疾患の増加も認められる.

しかしながら,とくに注目すべきことは,ウクライナ,ロシア,ベラルーシの3国に共通して小児の甲状腺ガンが増加していることである.ベラルーシの子供たちがもっとも多くこの病気にかかっている.世界保健機関のデータによれば,1966年から1985年までの間に小児甲状腺ガンが21例登録されたのに対して,1986年以降今日までの間に379例が記録されている.1986年から1989年にかけて小児甲状腺ガンの手術は18例,1990年には29例,1991年は59例,1992年は66例である.1995年は上半期だけで46例の手術が行われた.

1995年12月の世界保健機関のデータによればロシア,ウクライナ,ベラルーシの3ヶ国で680例の小児甲状腺ガンが登録されている.ヨーロッパの甲状腺調査研究グループのデータに従うと,これはほんの始まりで,今後30年間のあいだに数1000人の子供が甲状腺ガンにかかるという.

 

前述の発病率と死亡率の増加,とくに汚染地域に居住している子供における増加は,チェルノブイリ原発事故発生のまさに直後に彼らが被曝し,現在いろいろな病気に侵されつつあることを示している.そして,何1000人などという数ではなく,ソ連共産党中央委員会政治局事故対策作業グループの機密文書に明らかなように,何100万の人々が被害にあったという事実を物語っている.チェルノブイリ原発事故の日から遠ざかれば遠ざかるほど,人類はこの惨事の結果,ロシア,ウクライナ,ベラルーシ民族の次世代の遺伝子への被害,そして全世界の環境への影響についてより多くのことを知ることになるであろう.

文献

1. A. Yaroshinskaya, Chernobyl: Top Secret; Part II, Drugie berega, Moscow, 1991 (in Russian)

2. ibid., Part I.

3. Report of the Ukrainian Research Institute of Paediatrics, Obstetrics and Gynaecology of the Ministry of Health Care of the Ukraine. 9.02.1994. Kiev. Author’s archive.

4. Letter from the Ministry of Health Care of the Ukraine to Supreme Soviet of the Ukraine. 9.02.1994, #4.40-13/16. Kiev. Author’s archive.

5. Letter from the Ministry of Health Care of the Ukraine to the Heard of National Committee on Radioactive Defence of Ukrainian Population. 9.02.1994. #7.00/50. Kiev. Author’s archive.

6. Report by prof. T.Savchenko to National Committee on Radioactive Defence of Ukrainian Population. 10.06.1994. Author archive.

7. Information by the main children’s doctor of Zhitomir city, V.Bashek about health of Zhitomir’s children. 2.09.1994. (Prepared on requirement of author.) Zhitomir. Author’s archive.

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