カルロスさんと出会う前の中村隆市さんの歩みと、二人が出会った後の出来事について、2年前に明治学院大学で行われた<辻信一さんと中村さんとの対談>から抜粋したものを掲載します。
辻:フェアトレードに取り組むようになったキッカケは何でしょうか?
中村:今から15年ほど前にこの仕事を始めたんですが、その前に7年間、生協で有機農産物の産直運動をやっていました。その頃の日本は、有機農業という言葉も定着してなかった時代でした。その少し前に有吉佐和子という作家が、作家でありながら化学物質の複合汚染問題を朝日新聞に連載しだしたんです。それはその後『複合汚染』という本にまとめられています。私もそれを読んで有機農業の大切さというのを感じて、山村に移住して有機農業を始めたんです。しかし、有機農業に対する消費者の理解不足を感じて、消費者の意識を変える必要があると感じた私はその後、生協に就職して有機農業運動をやり始めたんです。7年間やっていくなかで、1986年にチェルノブイリの原発事故が起きました。
旧ソ連、今のウクライナ共和国のチェルノブイリで事故が起こって、8000kmも離れているのに、放射能が風にのって日本に届いたんです。世界に放射能がばらまかれて、特にヨーロッパで作られた農産物とか、ヨーロッパから輸出されるいろんな食品類が放射能に汚染されてしまった。日本政府は、370ベクレルという数字以上に汚染されたものは、健康に影響があるから輸入しないと決めたんです。私の勤めていた生協は10ベクレル以上は取り扱わないと決めた。国の基準の1/37です。特に、私の勤めていた生協はお母さんたちが作ってきた生協で、子どもたちの健康を大事にする人たちだったんです。
子どもたちに放射能で汚染されたものを食べさせたくないというのは当然のことですよね。放射能というのは細胞分裂が活発なほど影響を受けるんです。だから、大人よりも子ども、子どもより幼児、幼児より乳児の方が影響を受ける。放射能にはそんな性質があるにもかかわらず、日本人のお母さんの母乳から放射能が検出されたんです。これは母乳しか飲めない赤ん坊にとっては大変な問題なんです。8000kmも離れた遠い外国の一つの原発事故がこんなに影響を及ぼすことに驚いたのと同時に、もう一つ私が気になったのは、日本で370ベクレルという数字を設定して、日本に入れなかった食品はどうなるのかということなんです。調べてみたら、経済的に貧しい国にこれが届いていたんです。
それまで私は、有機農産物の産直運動、基本的に地場生産地場消費、その地域でできた旬のものを食べましょうという運動をやってきたんです。そういうものから、なぜ外国の有機コーヒーや紅茶を扱う仕事をするようになったのかというと、きっかけはそのことです。それ以前も、先進国と発展途上国といわれる国の間で、いろんな経済問題とか不公平な関係があるというのは、知識としては知っていたんですけど、知っているだけで何もしなかった。ところが、ふだん大量の食品を輸入している私たちが、放射能で汚染された食品を拒絶したことで、それが途上国にまわるという社会の構造に、自分の中では違和感というか、何というか、どうにも収まりがつかないような気持ちが芽生えてきて、そのことに対して何かやれないかと思ったのが、フェアトレードに関わっていくきっかけです。
チェルノブイリ原発の前に立つ中村隆市
辻:中村さんはそれ以来ずっとチェルノブイリに関わり続けて、被害者の支援運動などを今もずっと続けているわけですが、一方で、そのチェルノブイリの一つの教訓は、地場産業、自給の農業、つまり食料なんかを貿易に頼ることの問題がそこで見えてくるということだと思うんです。すると、そこからフェアトレードへという筋道が皆にわかるかなぁって思ったんで、そこをもう少し説明して下さい。
中村:世界には飢えに苦しむ人たちがたくさんいますが、そうした中で日本は、もっと食料を自給することが可能なのに、それをせずに大量に食料を輸入しています。そして、大量の残飯や賞味期限切れの食品を捨てている。そんな日本が「放射能に汚染された食料はいらない」と拒否する。そして、放射能で汚染された食品が経済的に貧しい国々にまわって、子どもたちの健康をさらに蝕んでいる。自分たちは一定の安全を保つけど、そのしわ寄せが途上国の子どもたちをさらに苦しめている。そういう現実を知ったことで、今までのように国内だけで、有機農産物の産直運動をやっていくことに、違和感というか、居心地の悪さを感じるようになっていったということです。
辻:チェルノブイリの事ですけど、はたから見ていると非常に奇特な企業だなと。チェルノブイリに会社をあげて取り組んでいる。みんなそういう会社を知らないと思うんで、どんなことを具体的にやっているか教えてください。
中村:チェルノブイリ支援コーヒーというのをやっているんですけど、事故が起こったのは86年ですけど、その当時は、旧ソ連には言論の自由というのがほとんどなかった時代です。それが3年くらいたって、徐々に現地の状況が伝わるようになってきた。子どもたちに甲状腺ガンが急増して、お母さんたちから「子どもたちを助けて下さい!」という悲鳴のようなメッセージが届くようになった。私は87年から今の仕事を始めて、5、6年はそれでメシが食えていないんです。借金でずっとやってきてたので、89年にそれを聞いても経済的な支援をすることが出来なかった。それで考えたのが、チェルノブイリ支援コーヒーというのを作って、それの収益は、チェルノブイリの主に子どもたちの医療支援に使うということでやり始めたんです。放射能に汚染されていないミルクや医療機器、医薬品などを現地に届けはじめた。
辻:ウィンドファーム社の中にNGOがあるわけですね。
中村:ウインドファームの事務所の中に「チェルノブイリ支援運動・九州」というNGOの事務所があり、代表や運営委員の一部をウインドファームのスタッフが担っています。
辻:会員はどのくらい?
中村:今は2500人から3000人くらいです。
辻:いま現在の活動状況は?
中村:今は主に、日本の甲状腺の専門医を現地に派遣しています。日本の甲状腺医療は、原爆の経験もあり、世界の最先端の技術をもっています。広島、長崎の経験を活かすということで、そういうお医者さんたちと一緒に現地に行って、そして現地の第一線の医者と一緒に放射能汚染地区の病院に行くんです。最初の頃は、日本人医師が来ると聞いて、病院に入りきれないくらい沢山の人が来て大変でした。子どもたちの不安げな表情が、脳裏に焼き付いています。この検診で初めて、甲状腺ガンの疑いがあることがわかって、精密検査を行い、そこで初めてガンであることが分かる。理不尽な話ですが、電気をほとんど使わないで、自給自足をしているような人たちが、原発事故の被害にあっている。そういう地域に行くと、そこの人たちはほとんど検診を受けられない状況にあるんですね。何故かというと、自給的なくらしをしていてお金がないんです。検査を受けるための病院というのは、首都圏にあるものですから、そこまで行くのに丸一日かかる。往復で二日。そういう交通費とか宿泊費がないんです。なにか身体がおかしいんだけども、検査を受けないままいて、症状がひどくなってどうしようもなくなって病院に行ったときには、甲状腺のガンが脳とか肺に転移して手遅れという事が起こっている。その為に、こういう移動検診というのが大事になってくるわけです。(※現在、移動検診車の買い替えのための募金を呼びかけています。)
辻:今日の話でみんなにもう一つ知っておいてほしいもう一つのコンセプトがあるんですけど、それはソーシャルベンチャーってことです。企業がそうやって、チェルノブイリの活動をやったり、環境運動に会社を上げて取り組んだり、という非常に不思議な会社なんですね。そういう会社が日本にもあるんだということを、みんなに知っておいてもらいたかったんです。それじゃあ、フェアトレードの話にもう一度戻しましょう。中村さんは、フェアトレードという言葉を知る前から、何を目指してどんな風にして中村さん版のフェアトレードというのが出来ていったのか教えて頂けますか。
中村:20才のころに水俣病に出会って、公害問題に関心を持つようになり、足尾銅山の鉱毒事件やイタイイタイ病、四日市ゼンソク、森永ヒ素ミルク事件だとか、いろんな公害問題を知って、こういう社会で自分はどうしたらいいんだと考える中で、だんだんと環境問題、食べ物の問題、そして、有機農業のことに関心が移っていったんです。有吉佐和子の『複合汚染』とかレーチェル・カーソンが農薬の問題を書いた『沈黙の春』などを読んだりして、その後、自分で有機農業の生産者になろうとしたんですね。山村に移り住んで、自分で米を作り、野菜を作り、鶏も飼って、という生活をし始めたんです。ところが、私は24才で子どもが出来て、一児の父になったんです。たぶん自分一人だけだったら有機農業の生産者でずっとやっていたと思うけど、子どもが生まれてお金もかかるようになり、生活が出来なかった。それと、有機農業を広めるためには、消費者の意識と流通システムを変えることが重要だと思って、その後生協に就職しました。
辻:その頃、有機っていう言葉を使っていたんですか?
中村:有機農業という言葉自体は、一般にあまり知られていなかったですね。生協の中でも本格的に有機農業を進めていこうとしてなかった時代です。
辻:どのように消費者の意識を変えていったんですか?
中村:消費者が野菜や果物の外観、見た目を最優先するという習慣を変えるのに苦心しました。まず、農薬の怖さが一般に知られてなかったんです。多くの人は漠然と、国が認めている農薬を使っているんだから、安全なはずだと思っていた。少々農薬を使っても、虫食いの穴があいた野菜や大小、形がバラバラな野菜より、きれいで形がそろっている野菜の方がいいと殆んどの消費者が思っていた。それで、まず生産者と一緒に農薬の勉強会を始めたんです。日本は単位面積あたりでは、世界で一番、農薬の使用量が多いこと。農薬中毒になったり、亡くなっている農民がいること。安全だと認められていた農薬の中に、じつは発ガン性や遺伝子に影響を与えることが分かって、農薬の登録を取り消されたものが沢山あること。発ガン性などの疑いがあることを研究者から指摘されても、それが明確になるまでは禁止しないこと。働き盛りの年代で、ガンによる死者が年々増えていることや子どもたちにアトピーなどのアレルギーが増えていることを知ることから始めました。
次に、生産現場を見てもらおうと。畑とか田んぼとかに一緒に行きました。一緒に行って、生産者と同じ作業をするんです。除草剤を使わない代わりに、草取りをする。化学肥料を入れない代わりに、重たい堆肥や有機肥料を散布する。そういう作業を生産者と一緒に汗をかきながらやる。作業が終わったら、生産者と一緒に食事をする。そんなことをやっていくと、だんだん変わってくるんですね。これだけの手間ひまをかけて、ようやく出来てきたのが有機野菜なんだと。一般に、有機農業に取り組んでいる生産者がほとんどいない中で、大変な手間ひまをかけて取り組んでくれている人たちがいるということが分かってくる。そして今度は、生協の組合員が売る側に回ってくれるようになったんですね。今までの自分たちと同じように、野菜の見た目を気にした反応が返ってくる時に、生産者の立場で話をしてくれるようになっていった。これは、こんな手間をかけて、こういうふうに苦労して、やって出来たんだと。スーパーの野菜は化粧したようにきれいだけど、農薬がたっぷりかけてあって、虫も食わない野菜なんだと。とにかく一度食べてみて下さい、本当の野菜の味がするからって、自信を持って話すようになっていった。そうした主婦たちの熱意が少しずつ周りを変えていったんですね。もとの質問は何でしたっけ?
辻:(笑)。フェアトレードなんだけども、そういう活動がベースにあって、ブラジルがあるわけですよね。
中村:そうそう、フェアトレードというより、日本でやっていた有機農産物の産直をブラジルでやろうとしたんです。
辻:産直。
中村:そうです。日本でやってたように生産者と消費者の関係を育てたいと思ったんです。
辻:そうすると、国際産直?
中村:そうですね。私のフェアトレードは、日本での有機野菜の産直、生産者と消費者が提携して、有機農業を育ててきた運動がベースになっています。
辻:コーヒーをやろうって決意して、ブラジルに出かけて行くでしょ。ここに「ジャカランダコーヒー物語」という本があります。これは、中村さんの有機無農薬コーヒーの産直活動を書いた「ジャカランダコーヒー物語」っていう冊子ですが、ちょっとかいつまんで説明して下さい。
中村:その前に、この冊子ができた経緯を少し話しますと、これは今いわれた産直活動、ブラジルと日本との取り組みを続けていたら、ブラジル国内で注目され始めて、メディアで取り上げられるようになったんです。そして、日系の新聞社も取材に来たんですね。その取材に来た記者が、私の取材をした半年後に新聞社を辞めて、うちで働きたいと言って来たんですね。矢野君というんですけど、その矢野君がうちで働き始めて、最初に書いたのがこの「ジャカランダコーヒー物語」なんです。
辻:ここにある「エコロジーの風」という生活情報誌も中村さんの会社で出してる冊子なんだけど、これを編集しているのも、その矢野さんですね。
中村:そうです。最初にブラジルに行って、本格的な産直をやりたい、こころの通う産直をやりたいと思って、そういう生産者を探して回ったんです。ところがほとんどの人が、農薬なしにコーヒーができるわけないじゃないかという反応なんですね。で、そういう中でその後も出かけていって、ようやく無農薬で作っている人たちに出会っていくんですけど、それでも、本当に気持ちが通う生産者となかなか出会えなかったんです。ところが、私自身が無駄とも思える農場訪問を繰り返していたのをちゃんと見ていた人がいたんですね。その人が、このジャカランダ農場のカルロスさんという方で、カルロスさんの方からアプローチがあって、一度会いたいと言われたんです。
会ったときに、まず最初に農場の中を案内してくれたんですけど、農場にいろんな人たちがいる。農作業をやっている人たち、お年寄りが農場を散歩していたり、子どもたちがその辺に遊んでいたり。そういういろんな人たちに会うんですけど、会う人会う人をお年寄りから子どもからスタッフまで、一人ひとりを自分の家族のように、詳しく紹介してくれたんです。この子は算数が得意なんだ。この子はいたずら好きで、この前あそこの池に落っこちたとか。この農場はブラジルでは珍しく、職員が農場の中に定住しているんですね。10家族定住しているんです。これはブラジルでは珍しくて、しかも職員を職員として国に登録している。一般にはほとんど登録しないんです。なぜ登録しないかというと、登録すると税金とか保険とか、いろんな費用がかかるからなんです。ほとんどの農場では、労働者というのは使い捨てなんです。必要なときだけ雇って、必要なくなったら辞めさせる。そういうのが一般的な中で、このジャカランダ農場というのは農場の中に家があって、社宅みたいな感じですね。そこに土地があって、野菜を作って、自給的な生活ができている。ブラジルの中では稀なんですが、非常に安定した生活ができている。そういう家族のような人たちを一人一人紹介する。私はもうそれだけで、この人とやりたいと思ったんです。
20年以上も前に、カルロスさんが農薬の使用を止めた理由は、消費者のこともありますけど、やはり農薬の被害を一番受けるスタッフやその家族の健康を考えたからなんです。農場をまわった後、カルロスさんと丸一日ずっと話をしました。それまでに数多くの農場を訪問しましたが、ほとんどの農場のオーナーは一時間も話をすると、いくらで買ってくれるんだという話になるんですけど、このカルロスさんは一切そういう話をしないんです。話したのは、あなたは今までどんなことをやってきたんですかということと、自分は今までこんなことをやってきました、という話をお互いに丸一日かけて話した。そして一段落ついて、ちょっと外に出ましょうと言われて、外に出たら、農場のスタッフが来ていて、ジャカランダという木の苗木を私に渡してくれた。カルロスさんから、それを植えて下さいと言われて、5、6本植えたんです。そしたら、植えた後にカルロスさんが、「これであなたはこの農場に根を下ろしました。これから末永くお付き合いをお願いします。そして、私だけじゃなくて、私の次の世代とも付き合っていって下さい」って言われたんです。私がブラジルで一番感動した言葉です。そこからの始まりなんですね。
辻:僕も一度、ジャカランダ農場におじゃまして、その時のことを思い出したんだけど、とにかくあの人の周りには不思議ないい空気が流れているというかね、彼の家での朝食なんていうのは、忘れられないスローフードな経験なんだけど。彼はいろいろな社会活動をされているわけですよね。例えばブラジルの歴史的な背景というのは今は詳しく立ち入る事は出来ないんだけど、普通、中南米の農場というのは、大概はかつての大農場ですよね。その延長上にある。もちろん、農地改革だとか民主的な改革というのがいくつかの波でやってくるわけなんだけど、しかし今でも根強く昔ながらの大農場のメンタリティーが残っていて、農場主っていうのは、奴隷主に近いような権力を持っていて、そこに暮らす人々というのはかつての農奴とかそういうのに近い。そういう支配関係というのは、いまだに尾を引いている。そういう中でこういう人がいるんですね。
中村:社会的な活動ということで言えば、カルロスさんは農場の中だけでそういうことをやっているんじゃなくて、ストリートチルドレンや赤ん坊を抱えた少女たちやエイズの子どもたちの世話をしていたり、一人暮らしのお年寄りの世話を20代の頃からやっているんですね。私が出会ったのは彼が60代でしたから、もう40年そいういう事をやっているような人なんです。そして、私が日本でやっていたチェルノブイリの支援活動をブラジルで呼びかけてくれたのもカルロスさんなんです。チェルノブイリの子どもたちが書いた作文集をブラジルで出版することにも協力してくれました。(※ポ語版の本の写真掲載)そして、カルロスさんの有機コーヒー栽培の取り組みがきっかけで、今、ブラジルに有機コーヒー生産者協会というのが出来てるんですけど、その協会の人たちもチェルノブイリ支援活動に協力してくれました。
辻:中村さんと私の出会いは、1998年の福岡で中村さんが開催した国際有機コーヒー会議でしたが、2000年にもブラジルで有機コーヒーフェアトレード国際会議を主催された。それにも僕は参加させていただいた上に話までさせてもらったんですけど、そして第3回が今年9月のみんなが関わることになる、エクアドルのコタカチでの会議なわけ。だから2年おきにそういう会議がある。それで、ブラジルに今限定しますけど、フェアトレードって具体的にどういう事なんですか? 例えば、値段の問題とか。フェアトレードって、みんなのイメージはそこらへんだと思うんです。やっぱり生産者がすごく貧乏で、消費者や中間に入っている人ばかりが儲けているっていう。今までの貿易っていうのは、フェアじゃないという事ですから、そこの仕組みを説明してください。
中村:フェアトレードの国際的な組織があるんですね。IFAT(International Federation for Alternative Trade)っていう。私がコーヒーの産直を始めた当時は、IFATもまだできていない時期で、フェアトレードというのはこういうものだということも、はっきりしていなかった。ただ、日本でやっていたような、有機農産物の産直のやり方を取り入れてやったんです。基本的には、生産する側と消費する側とが協力し合ってやっていくんです。後々わかってきたんですけど、ジャカランダ農場というのは、さっき言ったように、職員を非常に大事にし福利関係も手厚いものですから、人件費が他の農場よりかかるんですね。その一方で、出会った当時、コーヒー相場の下落が長く続いていたため、銀行からの借り入れ金が増えていたんです。
辻:そんな中で、値段はどういう風に決めるんですか?
中村:なんて言うんですかね、こういうのがフェアトレードだっていうふうには考えない方がいいと思うんですね。これはあくまでも私とジャカランダ農場がやっているやり方ですから。カルロスさんという人は、高く買ってくれって一切言わないんです。私も安くしてくれとは言わないんです。普通は、安く買おうとする、高く売ろうとする、そうやって交渉していくんです。ところがジャカランダのコーヒーに関しては、カルロスさんは一切高く売ろうとしないから、どうやって決まるかというと、大体、生産にいくらかかってるのか、農場の人件費等を含めたコストがですね。これだけあれば、やっていけるというのを、一緒に数字を見ていって、妥当な線が出てくる。それで、私がちょっと高めに「これくらいでどうですか?」って言うと、カルロスさんが「いや、そんなに高くしたら販売に困るでしょう。中村さんが困ることは、農場が困ることと同じだから、これくらいでいい。」といった感じで決まっています。
こんなこともありました。カルロスさんが、「今度、買おうと思っているコーヒーの苗がちょっと高いんだけど、いい苗だから、それを買っていいですか」って聞くんですね。それで、どんな苗かと思ったら、孤児院の子どもたちが育てた苗だったんです。今、日本で飲まれているコーヒーの一部は、その苗からできています。最近の例ですと、これもカルロスさんの方から言ってきてくれたんですけど、「円安で大変でしょう。ちょっと下げましょう」って下げてくれた。この農場とはそういうふうに決めている。これは、たぶん世界にもほとんど例がないと思います。
辻:そうすると、生産者の方が、消費者の、こちら側での競争力だとか、そういことも考えているわけですよね。
中村:ええ。そういう事ももちろん考えてくれるし、私の感覚としては、A社とB社の取引という感覚でなくて、一つのグループ、一つの会社の販売部門と生産部門という感覚ですね。「今、生産部門が非常に苦労しているから、販売部門が協力しよう」とか、「販売部門が苦戦しているから、生産部門が協力しよう」といった感じになっています。
辻:それは面白いですね。例えば普通のフェアトレード、これ貿易の関係でいうと、農場で農薬を使っていないかどうかなんてことは、認証との関係でチェックは入っても、一緒に畑を作っていこうという考え方じゃないですよね。だから中村さんの場合には、その段階から相談を受けたり、一緒に農場自体を作っていくという考え方ですね。
中村:そうです。例えば新しくコーヒーの苗を植えていく、あるいはタネを落としていく。その時の植える間隔をどうしようかということも相談したりします。これは今、密植栽培というのがかなり流行ってきていて、短期間で収穫も多いけれども、問題も多いので、どういう間隔で植えようかというような相談を受ける。そして、それじゃあ、このエリアは今までの植え方で植えて、このエリアは実験的に2m×80cmで植えてみようとか、一緒に考えて決めていくわけです。
話が飛びますけど、ジャカランダ農場には周辺の農場からどんどん見学に来るんですね。さっき2000年の会議のことを話しましたが、このジャカランダ農場の地域で会議をやって400人集まったんです。10年ほど前に行った時には、誰もが「農薬なしに出来るわけない」って言っていたのが、わずか10年で400人にもなったんです。結局そういうふうになってきた理由というのは、ジャカランダ農場が誰でも受け入れるし、頼まれればカルロスさんは出かけて行って教えるんですね。これはある意味、自分たちの商売敵というか、競合相手を作ることでもあるわけです。有機栽培のコーヒーがどんどんできてきたら、販売先が取られる可能性もあるわけなんですよね。でも、そういうことには全然こだわらない人なんです。とにかく有機農業を広げることが大事だということでやっている。
もう一つ関連して言うと、さっき言ったIFATの考え方では、スタッフを雇っているような規模の農場は、フェアトレードではないという考え方があるんです。小農民の組合とかグループとやるのがフェアトレードだと。それからすると、ジャカランダ農場はフェアトレードにあたらないんですね。でもそんなことは、カルロスさんや私にとってはどうでもいいことです。ジャカランダ農場にはたくさんの人が訪れます。カルロスさんは、誰でも受け入れます。農場の規模など気にしません。フェアトレードの基準にあてはまるような小農民の協会やグループもここに見学にきます。あるいはグループがカルロスさんを招いて講演を聞いたり、自分の農場で有機栽培の指導を受けて学んでいきます。でもカルロスさんは、IFATの基準からいうとフェアトレードじゃないんです。一方で、フェアトレードといわれてる団体でも自分たちの経験だとか、身に付けたものを他の人たちに教えるってことは、なかなか出来てないんです。でも、マッシャードという地域には、カルロスさんという人がいたから会議に400人も集まったし、今ではブラジルの中でも有機コーヒーのメッカになってきています。
辻:いま非常に難しい問題にも触れていると思うんだけど、フェアトレードというコンセプトがあって、一応コンセプトが出来ると、我々っていうのは切っていくというか、ここからここまでがフェアトレードで、ここから先はフェアトレードじゃないという切り方をする。一方で有機農業というコンセプトが今できつつある。世界的に。で、認証問題がありますね。つまり有機農業っていうのも、どこからどこまでが有機で、どこからどこまではそうじゃないと考えなくちゃいけない。もちろんそれは、そいういう事を設定しておかないと、かなりいい加減なものもあるということでそうなるわけだけど、今度、それを当てはめると、そこからこぼれていくものがたくさん出てくる。今、その認証の問題、これをみんなも研究していってもらいたいんだけど、これは国際的に言って大問題だと思うんですね。ジャカランダ、そしてその後のインタグのコーヒーなんかの場合もそうですけど、中村さんのなかでは、フェアトレードというコンセプトと有機というコンセプトがどう繋がっているのか。
中村:カルロスさんを例に話すと解りやすいと思うんですけど、この人は自分の農場とか、自分の家族だけよければいいとか、そういう感覚のない人なんですね。自分の国だけよければいいとも考えない。例えば、愛国心というのは、皆のためにと言われるけど、自分の国だけ愛するという話ですよね。いかに自分の国が利益を得るか、そういうことから戦争とか起こっていくけど、彼はそうではないんです。有機農業とかフェアトレードも、やっぱり自分たちだけでなく、未来世代も含めた皆が幸せに暮らしていけるようになるためにあるんです。
辻:ああ。有機っていうと、自分が有機のものを食べたいとか、自分の子どもだけには有機のものを食べさせたいとか、一種のエゴと結びつきやすいじゃないですか。そこから一歩出ていくのはすごく難しくなる。
中村:今の時代というのは未来世代のことを考えていない暮らし方ですよね。使い捨て社会もダイオキシンや環境ホルモンもそうだし、地球温暖化にしても原発にしてもそうですね。原発は、何万年も管理しなくてはいけない放射性廃棄物を毎日作り続けているけど、誰が責任取るんでしょう? あたかも後の世代はないかのような生き方を今の人間はしていますよね。自分たちの時代だけじゃなくて、後の世代のことも考えるのが大事ですよね。
辻:ここでちょっとまとめていこうか、中村さんなりのフェアトレードの定義ってことで、2000年のジャカランダ農場で僕ら話したじゃないですか。宮坂さんっていう日系ブラジル人の農業専門家で有機農業を指導されている方やエクアドルのカルロス・ソリージャさんとか、コロンビアの国際有機農業センターで所長をしていたラモンさんとか、そうそうたるメンバーで議論しましたけど、フェアトレードとは何か。中村さんとしては、まとめると、どういう事なんでしょう。フェアっていうのは、何かと何かがフェアなんでしょ、中村さんにとって、何と何がフェアなのか。
中村:大まかに言うと、人と人ですよね。フェアトレードでよく言われるのが「先進国」と「途上国」とのフェアという言い方しますけど、それだけではなくて、もっと広い意味での人と人とのフェアな関係。それから、人と自然とのフェア。そして、今の世代と未来の世代とのフェア。そんなところでしょうか、細かく言うと都市と農村だとか、一次産業とサービス産業とかいろんなのがありますけど。
辻:ジャカランダ農場に中村さんが関わるようになってから、どういう変化が現れたんですか?農場そのもの、人とか。この十数年。
中村:まず、日本の消費者を連れて行くと、みんなが土の軟らかさに感動します。一般のコーヒー園は土の道路のように硬いんです。これは除草剤と化学肥料を使うとそうなっていくんです。ジャカランダ農場は布団の上を歩くような、ふわっとした感じです。それからいろんな生き物がいるんです。虫がいて、クモがいて、土の中にはミミズや微生物がいて、小鳥がいて、小動物がいて、と。ジャカランダ農場には野生の動物が増えています。いつも小鳥の鳴き声がしているんです。一方で、一般のコーヒー園には雑草も生えていなくて、コーヒーの木だけは、一見立派でコーヒーもたわわに実っているけど、生き物が全然いない。レイチェル・カーソンが『沈黙の春』という農薬の本に書いてますけど、まさにそういう状態。コーヒーの木だけはあるけど他の生き物がいない世界です。
さっき、マッシャードという所で2000年に国際会議を開いた話をしましたけど、その地区に農業専門学校があるんです。その専門学校は、私が最初に行ったときは、近代農業一辺倒の教え方だったんです。農薬や化学肥料を使うことばかり教えていて、私が有機農業の話をしても理解できなかったんです。それが、5年後に行ったときには、有機コーヒーのセミナーをやったという話を聞き、次には、有機コーヒーのコースができたという話を聞きました。そこで、「実は2000年に有機コーヒーの会議をやろうと考えてる」と言ったら、「是非うちでやってくれ」と言われて、この学校で国際会議をやったわけです。
辻:それは大変な変化ですね。
中村:そうですね。ジャカランダ農場が色々なメディアで取り上げられるもんだから、その農業学校の教員も、一度行ってみた方がいいということになって、ジャカランダ農場に行って、土の軟らかさだとか、コーヒーの品質がとてもいいということを実際に見て変わっていったようです。日常的には目に見えないほど、少しずつ変わっていったんですけど、5年10年単位で見ると、変化の大きさが見えてきますね。カルロスさんとの出会いは、その後さまざまな出会いを生んで、コロンビア、メキシコ、エクアドルとつながって、辻さんやアンニャとの出会いもそこから生まれたんです。だから、もし、カルロスさんに出会っていなかったら、ナマケモノ倶楽部という環境団体もできていなかったかもしれないですね。(後略)