ウィンドファーム流フェアトレードの20年

第二章 ?フェアトレードの20年?
(その1 ブラジル・ジャカランダ農場)
コーヒーの原点
?どうして、それがコーヒーになったんでしょう。
 それまで有機農業を広めることをずっとやってきたので、日本で作れないもので同じことをやれないかと考えた。ただ、果物などは日持ちがしないから、すぐに売らないと痛んでしまう。いろいろ調べてみるとコーヒーなら生豆で輸入して湿度と温度管理をすれば、5年でも10年でも保管できることがわかった。そして、注文分だけ焙煎して販売すればやっていけると判断しました。


?よく、焙煎までやろうと決断しましたね。
 最初は焙煎業者に頼んでやってもらいました。1回目は気持ちよく焙煎してくれたのに2回目の焙煎を頼んだら、不機嫌な顔をしている。なぜかというと、数日前に新聞の取材を受けて、無農薬コーヒーの記事が大きく地元紙に掲載されたんです。無農薬コーヒーのことが表に出ると、一般のコーヒー栽培に農薬が使用されていることが知られる、それを嫌がった。それで、自分で焙煎することにしました。初めは家庭用の100gの焙煎器から始めました。というのも最初の頃は、一週間に10パックくらいしか売れなかったから、それで間に合ってたんです。逆に言うと、自分で焙煎を始めたから、注文に合わせて少しずつ焙煎したてのコーヒーを届けることができた。業者に依頼すると、どうしてもまとまった量を焙煎しないといけないので、鮮度が落ちてしまう。その後、500gの焙煎器を経て、8kg釜の業務用焙煎機になるまでに2年くらいかかりました。今は、10kgと30kgの焙煎機でやっています。
?コーヒーの事業が軌道に乗るまでに何年くらいかかったんでしょう?
 実は、スタートして4?5年はコーヒーだけで食えてないんです。私は、ふすまの張替えができたから「中村内装」という看板を掲げて、「3日間限り、今がお得!1枚980円!」というチラシを作った。安いからけっこう注文が来ます。注文がきたら、ふすまの見本を持っていって、980円のはこれですけど、もう少し高いのだとかなりいいですよと言いながら、1500円、3000円、5000円のも見せるんです。高いものほど利幅が大きいんです。お客さんも、全部並べて見ると、980円のは貧弱に見えるわけです。そうすると、「じゃあ、3000円くらいで」という話になる。しかもふすまは、普通2枚以上ですから。さらに、「障子も破れてますねえ」とか言ってもっと仕事をもらう(笑)
?そんなこと公表していいんですか(笑)
 まあ、そういうこともやりながら、コーヒーで食えない時期を食いつないできたということです。傘張り浪人みたいにね(笑)
病でスローダウン
?生協を退職して、独立後、一番苦しかったり、辛かったことは何でしょうか?
 
 87年に有機農産物産直センターの設立と同時に「有機八百屋モモ」をオープンして2ヵ月後にダウンしたことです。オープンするまでの準備期間もオープン後も睡眠時間を削って仕事をしていて、オープンする前は、体重が71、72キロだったのが、11月にダウンした時は51キロになっていた。20キロも痩せたんですね。もう骨と皮みたいで、肝臓をやられて、手のひらが黄疸でまっ黄色になってた。入院したのが、福岡県の有機農業研究会会長だった安藤孫衛さんの安藤医院で、劇症肝炎と診断されたんです。これは、当時だと8割くらいは死ぬ病気だったんです。私は知らなかったけど、カミさんは「あと2,3日が峠です」って言われて、泣いてたらしい。私が勤めていた生協では、「中村は死んだらしい」という噂が流れた(笑)
 安藤さんは医者をやりながら「食品公害から命を守る会」という無農薬とか無添加の食べものと玄米菜食を広める活動をやっていて、安藤医院の入院患者が食べる米は、自分の田んぼでつくった無農薬米。そして、野菜も産直の無農薬野菜で、水もきれいな湧き水を運んできて、飲料水やお茶、料理に使っていた。安藤院長から私は、「あなたの仕事は、噛むことです」と言われて、その通りに一口100回くらい噛んで、ゆっくりゆっくり食べ続けました。最初はお粥が長く続いて、徐々に普通の玄米ご飯を食べられるようになり、野菜のおかずも食べれるようになって、4ヶ月後に奇跡みたいに肝機能が正常値に戻って退院できたんです。
?病気の原因は、過労だけですか。
 
 ひとつ考えられるのは、私は「有機八百屋」を開店するまで農村に住んでいたことです。そこは、何故だか若い後家さんが多いんです。何故こんなに男が早死にするんだろうと謎だったんですが、私は、農薬が原因じゃないかと思うんです。そこは夏野菜の生産地で、飲料水は井戸水だったんです。トマトやキュウリは、1シーズンに20?30回、ナスで40回くらい農薬をまくんです。ナスは、寿命が長く長期で収穫するため、その分、農薬の散布回数も増えるんです。そういう野菜の産地だから多量の農薬が地下に浸透していくわけです。農家は「消毒」というんだけど、生物にとって農薬は「毒」です。そして、肝臓というのは解毒するところだから、そこに毒が集まるんです。亡くなった人も、ガンとか肝臓病とかが多いんです。だから私も農薬の影響で肝臓が弱っているときに過労が重なって発病したんじゃないかと思うんです。
?4ヶ月間も生死の間をさまよって、その間、どんなことを考えていましたか。
 病気で倒れるまでは、世の中の問題のすべてに応対しようとしていたんです。農薬も食品添加物も合成洗剤も原発も自然破壊も。入院している間にそれを考え直した。所詮、自分一人にできることは限られてるから、焦って無理せず「自分にやれることをボチボチやっていこう」って。今思えば、病気になってよかったと思います。それまで、忙しく生きてきたけど、入院して、ゆっくり考える時間を持てた。もし病気をしていなかったら、ほんとうに大事なことを考えることができずに、目の前の問題ばかりに追われて、一生が終わっていたかもしれない。
 ゆっくり考えることが現代人には本当に少ないですよね。「効率」ということがいつも頭の中にあって、限られた時間にいろんなことをいっぱい詰め込んでやろうとするから、本当に大事なことに充分な時間がとれない。
?病気の後、具体的に何が変わりましたか?
 これまで、あれもこれもと、あまりにもいろんなものに手を出しすぎたという反省から、ビジネスのやり方をとにかくシンプルにしようと思って、88年春に復帰したあと店舗事業はやめて、コーヒーの事業だけに専念しました。最初は、無農薬栽培のコーヒーを南北間の公平な貿易に関心を持つ人たちと共同で輸入しましたが、この共同仕入れ方式では、金額面での公平な取引は重視されたものの詳しい栽培内容や生産者の素顔が見えず、生産者との関係を深めることはできなかった。それで、有機野菜の産直と同じように、気持ちが通じる生産者を探そうと考えて、ブラジルに出かけていくわけです。
一路、ブラジルへ
 今から思えば、一番、有機栽培の生産者を探すのが難しい国に行ってしまったんですね。ブラジル各地をまわって、「コーヒーを無農薬栽培している人を探している」と伝える度に、「農薬なしにコーヒーができるわけないじゃないか!」という反応が帰ってくる。普通なら、それで諦めると思うけど、私の場合は日本でも同じような経験をしてきたから、もうちょっと探してみようと思えた。農薬の歴史なんてほんの数十年しかない。昔はみんな有機農業だったんだから、できないはずがないと思って探し続けたけど、1回目の訪問では見つからなかった。2回目の訪問では、コーヒーをつくってる日系人を通して生産者を探したら「高く買ってくれるのなら、無農薬で栽培してもいい」という人と出会ったけど、あまりにもお金を重視する人だったから、「一緒にやってみよう」という気持ちになれなかった。
 3度目のブラジルで、ようやく無農薬コーヒー生産者と出会えて、帰国後すぐにコーヒーの直輸入を開始したんです。生産者の顔が見えて、無農薬という安心感に加え、注文を受けて焙煎する香りのいいコーヒーだったから売り上げも順調に伸びていった。だけど何故だか、自分自身では満足できなかったんです。何故だろうと考えたら、モノとおカネは流れてるけど、途上国とつながる仕事をはじめた目的(将来、子どもたちのために何かしたい)との距離が遠いと感じた。それでまたブラジル訪問を続けるわけです。
カルロスさんとの出逢い
 93年夏、「有機コーヒーの生産者を探している変わった日本人がいる」という話を聞いた人から連絡があり、その人がジャカランダ農場のカルロス・フランコさんでした。初めて会ったとき、カルロスさんは農場内をゆっくりと案内してくれました。今までの無農薬コーヒー農園よりも土が柔らかく、スコップがなくても手で土を掘ることができた。それと、コーヒー園全体に昆虫、チョウ、クモなどの生き物が多く、小鳥の鳴き声が絶えない。農薬と化学肥料を多用する一般のコーヒー園は、レイチェル・カーソンが「沈黙の春」に書いたように虫や鳥の姿が見えず、除草剤で草が生えていません。ジャカランダ農場の場合は、草のなかにコーヒーが植わっている感じだから、その違いにびっくりしました。
 それ以上に驚いたのが、農場内で出会う子どもやお年寄りや青年たち皆をカルロスさんが家族のように詳しく紹介してくれることでした。「この子たちは、さっき紹介したシルビオの子どもで、とてもよく家事を手伝っています」「この人は私の子どもの頃からの親友で、今でも農場が忙しいときは草刈をして手伝ってくれます」「あそこで働いているネルソンは、子どもの頃から苦労して学校にも行けず、食べものも十分に食べられなかったから、初めて会った頃は、枯れ木のように細い腕でした。今は、この農場でも一番熱心に働くスタッフの一人で、皆に愛されています」というふうに。
 ジャカランダ農場には職員が10人いて、10家族が農場の中に定住していました。そして、職員として国に登録しています。これはブラジルの中では珍しいことで、一般には、税金とか保険とかの支払いを避けるために、ほとんどが登録しないんです。そして、多くの農場では、労働者は使い捨てなんです。必要なときだけ雇って、必要なくなったら辞めさせる。ジャカランダ農場では、農場の中に社宅があって、家族ごとに野菜を作り、庭先で鶏や豚を飼っている。自給的な安定した暮らしがありました。で、その家族の一人ひとりを紹介してくれたわけです。私はもうそれだけで、探していたのはこの人だと確信したんです。
 カルロスさんとは、その後もじっくりと話をしました。他の農場では、ほとんどのオーナーが一時間も話せば、いくらで買ってくれるんだという話になるけど、カルロスさんは一切そういう話をしなかった。そして、「あなたはどんなことを今までやってきたんですか?」「私は今までこんなことをやってきました」とお互いの半生を語り合いました。私は水俣病に始まり、松下竜一さんのこと、無農薬野菜の産直運動、チェルノブイリの支援活動などを話した。「19歳のときに胎児性水俣病の子どもたちを見て、なぜ大人たちはこんな公害病を起こしてしまったのかと考えました。今もチェルノブイリの子どもたちを支援しながら同じことを考えています。どちらも大人が子どもに被害を与えています。環境問題の本質は、後の世代のことを考えず、自分たちの目先の利益や便利さだけを追求していることに原因があると思います」。そして、原発が産み出す放射性廃棄物のことや森林の減少、自然破壊の問題について語り合いました。
 カルロスさんも自分の半生を語ってくれました。サンパウロ大学の工学部を出て、お兄さんと2人で建築会社を設立して橋をつくってきたけれども、建築業界はワイロが横行していて、ワイロが嫌いなカルロスさんの会社には僻地の仕事しかこなかった。60年代後半からアマゾンの奥地で橋の建設作業に従事していたとき、湿気と暑さ、マラリア蚊に囲まれた過酷な条件の下で作業が行われ、マラリアによって4人の作業員が命を失った。それがきっかけでカルロスさんは建設会社の仕事をやめ、お父さんから引き継いだジャカランダ農場の経営を担うようになります。
 話が一段落ついたとき、カルロスさんから「ちょっと外に出ましょう」と言われ、外に出たら農場のスタッフが来ていて、ジャカランダという木の苗木を渡してくれました。ジャカランダという木はとても硬い木で、ギターなどの材料になる木です。その苗木を植樹するように言われて、5、6本植えました。植え終わったとき、カルロスさんは言いました。「これであなたはこの農場に根を下ろしました。これから末永くお付き合いをお願いします。そして、私だけでなく、私の次の世代とも末永くつき合っていって下さい」と。ブラジルに来て一番感動した言葉でした。
?カルロスさんが農薬の使用をやめたキッカケは何でしょうか?
 ブラジルでは、1960年代後半から農薬と化学肥料が急速に広まったのですが、カルロスさんは除草剤を散布した場所で小鳥の死骸を見たり、農薬が混じった水を飲んだ牛が死んだり、農薬散布後に頭痛を訴えるスタッフがいたので、少量の農薬しか使わないように心がけていたんですが、78年当時サンパウロ大学で生化学と薬学を学んでいた娘から農薬の取り扱いに関する注意事項を書いた手紙が届きました。農薬散布時には、防水性の作業着に防塵用マスク、保護めがね、長靴、手袋、帽子を必ず使用するとか、農薬が肌に付かないように注意し、農薬のかかった作業着はただちに取り替えるとか、作業中や作業後に農薬散布地に子どもや動物を近づけないなどの注意事項を読んで、カルロスさんは「農薬は、生産者にとっても消費者にとっても自然環境にとっても良くない」と判断し、80年までにコーヒー園での農薬使用を完全に中止しました。
カルロスさんとのフェアトレード
?ジャカランダ農場の概要を教えて下さい。
 ジャカランダ農場は1856年にカルロスさんの曾祖父が開墾し、今、農場には職員の家族も含めると5、60人が住んでいます。その中には、4世代前からずっと住んでる家族もいます。農場の敷地は 213ヘクタール。その内コーヒー園は約90ヘクタール。あとは、バナナ園、農場スタッフの社宅、スタッフの野菜や穀物の畑、魚を養殖してる池、そして、森林などがあります。カルロスさんは、スタッフに草刈り機を使わせないんです。なぜかというと、コーヒーの山は傾斜が強いので、機械を使うとケガすることも多いんですね。だから、大きな草刈鎌を使わせるんです。とにかくスタッフを大事にする農場です。
?フェアトレードは、適正な価格という言い方をしますが、カルロスさんと中村さんの場合は、どうやって価格を決めてきたんですか。
 今の一般的なフェアトレード価格の決め方は、国際的な組織があって、そこで決めることが多いんですが、私の場合は、ジャカランダ農場に限らず、私の方からいくらにしてくれとは言わず、生産者の決めた価格でやるのが基本です。ジャカランダ農場に関しては、カルロスさんが一緒に価格を考えてくれということで、そうしてきました。そこで、何を基準に考えるかというと、双方が続けていける価格なんです。
 カルロスさんは、高く買ってくれって一切言わないんです。私の方も安くしてくれとは言わない。一般の取り引きでは、当然高く売ろうとするし、安く買おうとする。そうやって価格交渉をするものです。では、ジャカランダコーヒーの場合どうやって価格が決まるかというと、農場の人件費などを含めたコストが、いくら位かかっているかをまず見ます。ジャカランダ農場は職員に対する福利厚生が充実しているから、当然その分高くなっています。それと、他の農場よりも手間ひまかけてやるからコストが高くなる。草刈もそうですし、堆肥作りでもそうです。手間をかけて作った堆肥を広いコーヒー園の隅々まで持っていく。そういうことをしているからすごく人件費も掛かるけれども、カルロスさんは、それでいいと考えているんです。ブラジルには、仕事がなくて食べられない人たちがいっぱいいるから、仕事があるのはいいことだと考えている。ここに仕事があることで、農村を離れずに家族が一緒に暮らすことができる。都会に出て行って仕事がなくて、子どもを育てられない人たちも多い。そうしたことを防ぐことができるから、それが嬉しいって言うんです。だから、私と価格の話しをする時には、申し訳なさそうに言うんですね。「こんなふうで色々と経費がかかって・・・」私は、「スタッフを大事にしていることは美味しくて安全なコーヒーをつくっていくことにつながっているから、それでいいと思います、賛成です」と答えるわけです。
 そして、これだけあれば農場をやっていけるというのを一緒に計算していくわけです。出てきた数字に、私がちょっとプラスして「これくらいでどうですか?」と聞くと、カルロスさんが「いや、そんなにいらない。中村さんが困ることは、私たちが困ることです。もう少し安くしましょう」と、そんな感じで決まっていくんです。ある年などは、カルロスさんの方から、「円安で大変でしょう。ちょっと下げましょう」と言ってきてくれたことがあります。ジャカランダコーヒーの場合にはそんなふうに決めていますが、これはたぶん世界にもあまり例がないと思いますね。
?カルロスさんは、コーヒーを栽培する上で、いろんなことを中村さんに相談されてたそうですね。
 例えば、新しくコーヒーの苗を植える時に、その間隔をどうしようか、ということを相談してくれるんです。最近、一部に密植栽培というのが流行ってきていて、短期間でたくさん収穫できるけれどもコーヒーの樹が長持ちしないかもしれないし、病害虫が出るかもしれない。そこで、2人で相談して、どんな間隔で植えるかを一緒に考えるわけです。そして、協議の結果、今回はテスト的に一部エリアだけ密植栽培をしてみよう。その結果がよかったら、エリアを広げましょう、というふうに決めていくわけです。
 こんなエピソードもありました。カルロスさんから「今度古いコーヒーの木を更新して新しい苗を植えようと思うんだけど、いい苗があるから買ってもいいだろうか?」と聞くんですね。「ただ、いい苗なんだけど、値段がちょっと高い。それでもいいですか」と。コーヒーは、種から育てることもしているから、必ずしも苗を買わなくてもいいんだけど、じつは、その苗というのは孤児院の子どもたちが育てたものだったんです。カルロスさんは 、その子たちの支援をしたかったんですね。今、販売しているコーヒーの一部は、そのときの苗から収穫されたもので、美味しいコーヒーが育っています。
?1998年にコロンビアで開催された国際有機コーヒーセミナーにカルロスさんと中村さんが招待され、ジャカランダ農場とウィンドファームとの取り組みがフェアトレードのモデルケースとして紹介されていますが、お二人はどんな講演をされたんでしょうか?
 もともとフェアトレードというより、日本に有機農業を育ててきた産直や提携といった生産者と消費者のつながりを強める取り組みが、フェアトレードのモデルケースとして注目されたんですね。「それまで『金銭面での公正な貿易』と捉えられがちだったフェアトレードに暖かな血が通ってきた」とカルロスさんは表現していました。セミナーでの多くの講演が、有機農業の栽培技術にポイントを置いたものが多かった中で、カルロスさんは「有機農業に取り組む生産者としての喜び」を語りました。スライドを使いながら、有機コーヒーをつくって、日本の消費者と直につながることの意義について多くの時間を割きました。
 生産者と消費者との意思の疎通や交流をとても大事にしていること、その具体的なやりとりが特に注目されました。フェアトレードが始まってから、カルロスさんや農場スタッフと日本の消費者との間に、手紙やビデオレターのやりとりが繰り返し行われたり、農場訪問者のレポートが消費者全員に送られたり、本が出版されたりしていることが報告されました。消費者からの「おいしかった」という喜びや「ありがとう」という感謝の気持ち、「これからも頑張って下さい」という励ましなどが、何ものにも代え難い喜びであるという話をカルロスさん独特のゆったりとした口調で、聴講者ひとり一人に語りかけるように話しました。
 このような生産者と消費者との強いつながりをつくるフェアトレードが行われていることを初めて知った人たちの間にざわめきが起こりました。カルロスさんは、「有機農業は、生産者にも消費者にも環境にも害を与えないだけでなく、人々や生物に幸せをもたらす偉大な仕事です」と講演の最後を締めくくりました。カルロスさんのスピーチは、多くの人に感銘を与え、セミナーで最も長い拍手が続きました。私はカルロスさんの話を補足しただけですが、「有機農業は、私たちだけでなく次の世代にとっても希望の農業だと思います。そして、フェアトレードは、その希望を生産者と消費者が一緒に育てていくものだと思います」と話しました。
 このセミナーでメキシコの生物学者パトリシア・モゲル教授がアグロフォレストリー(森林農法)の話をしてくれました。森林農法というのは、森を残したまま、森の中に様々な果樹や作物を植えていく農法で、豊かな恵みをもたらすと同時にCO2を吸収し生物種の絶滅をも防いでいます。その話を聞いたカルロスさんは、森林農法の重要性を理解し、自分のコーヒー園の一部で実験的に樹木を増やしています。単一作物で、コーヒーを大量に作ってきたブラジルでこそ、森林農法が大切だと考えたわけです。カルロスさんは、これは大事だと思えば、新しいことにも果敢に挑戦していく人でした。
?カルロスさんは2003年に亡くなられましたが、ジャカランダ農場を通して、カルロスさんが一番やりたかったことは何だったんでしょうか?
 2000年にジャカランダ農場へのツアーと「有機コーヒーフェアトレード国際会議」に参加した明治学院大学教授の辻信一さんはこう言っています。「農場でカルロスさんにお会いしました。とにかくあの人の周りには不思議ないい空気が流れているんですよね。農場の中の彼の家でいただいた朝食は、一生忘れることができない感動的な経験です。中南米の歴史的な背景というものがあって、普通、プランテーション型の農場というのは、大農場で、昔からの農場主と農奴たちの封建的な関係が今でも根強く残っています。カルロスさんは自分の農場で、そういう昔の関係を一掃するようなひとつのユートピアを作ろうとしていたように感じます」と。 私も辻さんの感想に近いものを感じていました。それと、やはり、自然との共生ですね。自然と調和した農場のモデルをつくろうとしていたように思います。農場内の生物多様性が豊かになり、鳥や野生動物が増えていることをいつもうれしそうに話してくれましたから。
広がるオーガニックな世界
?ジャカランダ農場とウィンドファームとのフェアトレードは、社会にどんな影響を及ぼしましたか?
 ジャカランダ農場があるミナス州マッシャード市に農業専門学校がありますが、十数年前に学校を訪問したときは、校長も教員も有機農業にまったく関心を持っていませんでした。ところが、それから5年ほどして再訪すると、有機栽培のコースができていました。そして、2000年にブラジルで「有機コーヒー・フェアトレード国際会議」を計画していると校長に話したら、会場はぜひとも、この学校を使ってほしいと言われました。この会議のことを聞いた人たちは、「ブラジルで土曜日曜に、有機栽培をテーマにして、有料で開催する会議なんて、参加する者は、ほとんどいないだろう」と予想していましたが、実際にはブラジル各地から400人も参加しました。ブラジル銀行は、会議のスポンサーになっただけでなく、この会議以後、有機農業生産者に対して融資するようになりました。それは、ブラジル社会が有機農業の可能性を認めたことを意味しています。ブラジルの有機農業の歴史は、2000年の会議の前と後で分けられるという人もいます。
?大きな変化ですね。
 もちろん、私たちの取り組みだけが社会を変化させてきたのではなく、たくさんの力が集まって、
有機農業を広めています。特に、家族で有機農業をやっている生産者が、直接消費者に販売するファーマーズマーケットがブラジル各地で広まっています。それと連動して、有機野菜を使うレストランが増えています。私たちは2000年にブラジル初のオーガニックカフェ(有機コーヒー専門のカフェ)「テーハベルジ(緑の大地)」を環境都市クリチバに開店しました。今では、ブラジル各地にオーガニックカフェが増えています。ウィンドファームのブラジル現地スタッフであるクラウジオにも講演依頼や有機農業に取り組みたいという相談が年々増えています。それと、もう一つの大きな出来事は、2004年にジャカランダ農場があるマッシャード市が、世界で初めて「有機コーヒー首都宣言」を発表したことです。
?中村さん自身も有機農業とフェアトレードを普及した功績でマッシャード市から名誉市民章を授与されましたね。
 あれは、カルロスさんの代理で受け取ったものだと思っています。それと、カルロスさんの影響は、
マッシャード市だけでなく、隣のポッソフンド市で小規模な家族農業を営む農民たちにも広がっています。彼らは、カルロスさんの指導や影響を受けて、小農民組合をつくりましたが、今では組合のメンバーがどんどん増えて、一説によると、世界で最も有機栽培の認証を得ている比率が高いともいわれています。
 カルロスさんが亡くなって4年経ちましたが、ときどき思うんです。カルロスさんと10年間やってきたことは、夢だったんじゃないかって。今、思い返してもファンタジーのような出来事でした。カルロスさんが亡くなったとき100人を超える方から手紙やメール、お花代が送られてきましたが、あれほど「消費者」に愛されたコーヒー生産者は、おそらく他にはいないでしょう。
 奥さんや子どもさんに聞いた話ですが、カルロスさんは最後の10年間が人生で最も生き生きしていたというんです。いつも嬉しくてしょうがないようにしていた、と。カルロスさんは消費者のことを「家族」とか「友人」と呼んでいましたが、その友人たちから来たメッセージをとても大事にしていました。亡くなった後、カルロスさんの仕事部屋に入ると、机の周りに日本からの手紙や色紙がいっぱい貼ってありました。その中には、10年前に初めて渡したメッセージも貼り出されていました。
 今でもときどきカルロスさんの言葉を思い出します。「本当に豊かな生活とは、自然と共にあり、次の世代に希望を残していくことではないでしょうか。私たちは決して一人で生きることはできません。すべてのいのちはつながっていて、そのつながりによって、私たちは生かされています。分かち合うこと、助け合うことが、私たちに心からの平和と豊かさをもたらしてくれます。未来の子どもたちのために希望をのこせるよう、一緒に力を合わせて仕事をしていきましょう」。この言葉を忘れないようにしたいと思っています。

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