◆亀山ののこ 写真集 『100人の母たち』 より抜粋
「ママは原発いりません」がなぜ「脱原発」を叫んでいるのか
ママ原のメンバーの多くは放射能から避難してきた原発被災者です。そしてそれに寄り添う者たち、で構成されています。原発被災者の苦しみ、悲しみ、そこから立ち上がっていくこと、それを経験してきたり、間近で見てきている人たちです。
私たちは帰る家を失いました。
生まれ育ってきた故郷に二度と戻れなくなりました。
避難場所を転々として地に足がつきません。
家族が離れて生活することになりました。
親に孫の顔を滅多に見せることができなくなりました。
クリスマスもお正月も誕生日も、家族ばらばらでした。
友人、親せきと疎遠になりました。周囲からノイローゼ扱いされました。
長年誇りをもってしてきた仕事を捨てました。
子どもを泣かせて、それでも転校させました。
被曝の危険を理解してくれない夫と離婚しました。
たった1人で知らない土地で子どもを産みました。
住めない家のローンを払い続けなくてはいけません。
避難生活でもう貯金が底をつきました。
そしてなにより悲しいことに、大切な我が子や自分の身体に異変が起こりました。
鼻血がでました。血便がでました。下痢が止まりません。
湿疹がひどくなりました。風邪をひき続けています。
甲状腺にしこりができました。血液の状態に問題があると指摘されました。
子どもの未来を考えると眠れません。
うつっぽくなりました。
これは、私自身や私が福岡で出会った友人たちの生の声です。
1年たってもまだまだ終わらない。この先、一体どうしたらいいのか。自分たちはどこに行くのか。離れることで薄れていく家族の絆を取り戻せるのか。そしてこの先、我が子が病気になるかもしれないという不安。
悲しい、苦しい、悔しい、さみしい、憤り、怒り・・・心の中がぐちゃぐちゃになりそうなこともありました。
でも、自分たちはつらいんだと声高く愚痴ったりできないのは、この悲劇を引き起こした原因の一端に自分たちの無知、無関心があることに気付いているからです。原発の事故がこんなことを招くなんて夢にも思わなかった。私たちが何気なく使っていた電気を作るシステムは、人口の少ない地方に危険な原発を押し付け、そこで働く原発労働者に被曝を強いて病にさせる、そういう誰かの犠牲の上に成り立っているものだった。
そんなこと自分たちに火の粉が降りかかってきて初めて知りました。自分たちは間接的だけど加害者でもあるのです。これまでの自分の無関心さに心から反省、後悔もしているのです。
福島では1年たっても、10年たってもその先もずっとこの苦しみと戦っていかなきゃいけない。それは想像を超える苦しさではないかと思います。もうそんな思いをする人をこれ以上増やしたくない。またどこかで事故が起きて手遅れになる前に気付いてほしい。九州は福島を、東北関東を助けられるところだから。
だからママ原は「脱原発」なのです。
イデオロギーでも自己満足でもなんでもないのです。
こんなひどいことになる原発、子どもの未来にはいらないよねって
親として、人間として、当たり前のことを言いたいだけなのです。
だから私たちは子どもを抱えて声をあげ続けてきました。
知っているのに沈黙することは罪だろうと思うから。
大人の、みんなの沈黙が子どもを虐げることになるのだから。
今、この瞬間も人がいてはいけない高線量地区で、子どもたちが色んな事情でやむなく暮らしているのです。家族が、友人が、恩師が、大切な人たちが暮らしているのです。
脱原発を訴えることは原発被災者と寄り添うことだとも思っています。
(「ママは原発いりません」https://mamagen.jimdo.com/)