藤城清治 88歳 影絵で描く福島・・・そこに刻まれた宮沢賢治の言葉

影絵創作の第一人者、藤城清治さん(88歳)は、美しいメルヘンの世界を70年近くにわたって表現し続けてきたが、2012年11月 「被災地の現状を描きたい」 と福島第一原発のある町を訪れた。町役場の人の案内で向かったのは、原発から2.1km離れた福祉施設の屋上。原発がよく見える。放射線量は、通常時のおよそ100倍。許された滞在時間は、3時間。放射能防護服を着てスケッチした。

完成した作品の題名は「福島大熊町 原子力発電所 鮭がのぼる

藤城清治 88歳 影絵で描く福島

この絵の右側の石に宮沢賢治の言葉が刻まれている。
世界がぜんたい 幸福にならないうちは 個人の幸福は あり得ない

賢治 世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福は・・・


藤城清治 88歳 影絵で描く福島
(2013年1月10日 NHK)から抜粋

影絵を作り始めたのは、戦後まもない頃。
「絶望にうちひしがれた人々の心に明かりを灯したい」という思いからでした。

「なにかできないかなと思ったときに、そうだ自然の光だと。
光があれば、なにかできるのでは。
太陽、月、ろうそくの光があれば、なんでも表現できる。」

人々に夢や希望を。
70年にわたって、メルヘンの世界を描き続けてきました。
そんな藤城さんに大きな転機が訪れます。
東日本大震災です。
震災から5か月後、藤城さんは、宮城県の被災地を訪ねました。
目の当たりにした自然の猛威。
自分自身の作風を見つめ直すきっかけとなりました。

影絵作家 藤城清治さん
「自分は、ただ楽しいメルヘンを描いてた。 夢を描いてた。
もっと自然を見なければいけない、自然と向き合わなければいけない、
自然と闘わなければいけない。この年になって、やっと気がついた。」

東日本大震災の現実ともっと向き合いたい。
大熊町の協力をえて、原発の近くへ向かいます。
放射能に汚染され、今も住民が自由に立ち入ることのできない区域。
ススキだけが伸び放題になっていました。
町役場の人の案内で向かったのは、原発から2.1キロメートル離れた福祉施設の屋上です。

「説明しますと、三角の屋根が一号機、下の低いのが二号機…。」

初めて目にする福島第一原発。

「描こうか。」

放射線量は、通常時のおよそ100倍。
許された滞在時間は、3時間です。

「原発の場所そのものではなくて、地域全体に原発の事故がある。
何もないようなかたちが広がっている広さに驚いた。
一見、静かな風景に見えるなかに、見えない放射能が流れていることを描かなくてはいけないのでは。」

藤城さんは、ぎりぎりまで描き続けました。
帰り道。 橋の上で、突然、車を止めました。
のぞき込んだ先には…。

“さけ”がいました。

「けっこういますね、まだね。」

大熊町では、毎年、700万匹の稚魚を放流していました。
震災の3年前に放流されたさけが戻ってきていたのです。

福島訪問から3週間。
藤城さんが懸命に向き合っていたのは、あの“ススキ”です。
目に見えない放射能を刻み込む。
一本、一本に、力を込めます。

「たんなる“すすき”だろうけど、前はそこに建物があった。
全部“すすき”が伸びてきてしまっている。 人も住んでいない。
目に見えない、言うに言われないものがいっぱい美しい風景の中に含まれている。」

最後にとりかかったのは、“さけ”でした。
福島で出会った“さけ”。
その時に感じた気持ちを込めました。

「魚が生きていることのすごさ、勇気がでる。救われた。」

この度、完成した作品。
「福島原発を描く」。
奥には原発。
目に見えない放射能。
手前には、川をのぼる“さけ”。

「目をそらすのではなくて、人間はどんな時代でも、乗り越えていった。
乗り越えるときに、人間の本当の力が出る。
これ(人間の本当の力)を、いろんな意味で描ききっていければ。」


福島大熊町の作品 完成 
(2012/12/20 藤城清治ファンのページ)

藤城先生が、放射能防護服を着て描いた作品が完成しました。
題名は「福島大熊町 原子力発電所 鮭がのぼる

藤城清治 福島原発のデッサン

藤城清治が描いたドームのような建物

ドーム型の廃墟は、大熊町水産振興公社の建物で
原発から出る温排水を利用してヒラメの稚魚を養殖していた。

ドーム型の廃墟は原発の温排水でヒラメの養殖をしていた

福島で防護服姿でスケッチする藤城清治さん2

藤城清治 福島原発のデッサン

藤城清治 88歳 影絵で描く福島
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