「今週の風の便り」は、南米からお送りしています。
10月上旬に日本を発って、メキシコ、コスタリカ、エクアドルを経て、私は今ブラジル初のオーガニックカフェ「テーハベルジ(緑の大地)」にいます。
南米ツアーの報告をする前に、5月に来日したアウキ知事との対談をお送りします。
エクアドルからアウキ知事が来日中村隆市
5月19日から25日まで、エクアドル・インタグコーヒーの故郷であるコタカチ郡からエクアドル初の先住民知事であるアウキ・ティテュアニャさんが来日した。日本の市民が選ぶ「地球を愛する1〇〇人」に選出され、その講演とインタグ地区の「鉱山開発反対キャンペーン」のために二度目の来日となった。私は講演ツアーに同行したため、一週間の旅の間、じっくりといろんな話をすることができた。エクアドルで会うアウキさんは、知事の仕事に忙しいため、こんなにゆっくり話せたのは初めてのことだった。
前回、来日したのは1998年だったから7年ぶりの来日となる。33歳だった7年前にも感じたことだが、アウキさんと話していると「この人はいったい何歳なのだろう?」と思うほどに、長老のような落ち着いた雰囲気を持っている。ツアーの間、たくさんの人たちに様々な質問を投げかけられたが、どんな質問に対しても冷静に穏やかに応対していた姿を見ていて、アイヌ民族で初めて日本の国会議員になった萱野茂さんを思い出した。だが、アウキさんは、まだ40歳になったばかりだ。
しかし、彼が歩んで来た道の背景には、スペイン人に侵略され、苦しみ続けた先住民の500年がつながっているため、一つひとつの言葉に歴史的な重みが感じられる。アウキさんは、エクアドルで初めて郡知事を3期務めているが、コタカチ郡だけでなく、エクアドル全土の先住民や小農民からも将来の大統領候補として大きな期待がかけられている。
今回、私はいくつかの会場でアウキさんと対談することになったが、その度に「ハチドリの伝説」について話をした。実は、アマゾンの森が火事になったとき、小さなくちばしで水滴を運び続けたクリキンディ(黄金のハチドリ)の伝説を私に教えてくれたのが、アウキさんのパートナーであるアルカマリ(ルースマリーナ)さんである。
中村:日本に来て直接アウキさんの話を聞ける人が限られるので、インタビューを通じてアウキさんのことをたくさんの人に知ってほしいと思っています。
アウキ:日本の皆さんに対して、よりよい世界、平和的、そして自然も豊かで団結力のある社会というものが想像できるような政治を伝えていきたいと思います。
中村:今日、私が特にお聞きしたいことは、コタカチモデルと言われている参加型民主主義のことです。そのことを今日は掘り下げてお聞きしたいと思います。それで、そのことの背景にあるアウキさんの生い立ちのところから聞かせてください。
アウキ:1965年1月2日に生まれました。年齢は40歳です。キチュア族の先祖の息子で私を含めて5人の兄弟がいます。3人が男性で2人が女性です。今まで生まれてから家族も含めてコタカチに生まれてコタカチで育っています。
中村:兄弟の何番目になるのですか。
アウキ:私は長男で、1番目になります。それで、弟が2人、妹が2人です。
中村:先住民という立場で生まれ育ってきて、そのときの時代背景を聞きたいのですけれども、その頃の先住民に対する差別というのは、どのような状況だったのでしょうか。
アウキ:そうですね。スペイン人が征服して、やはり不平等な社会というものが持ち込まれました。例えば、土地のない農民の生活、新しい宗教が持ち込まれまして、不平等、そして差別のある社会が生まれていきました。そのような差別というのは、学校だとか広場でくつろいでいるとき、又、道を歩いているときでも感じました。実際に社会では、スペイン人が優れていて先住民が劣っているという考えが広まっていました。このような社会背景が、私たちに先に進むための勇気を与えてくれています。
中村:アウキさんのお名前ですけれど、これは先住民の名前ですか。
アウキ:はい。
中村:私がエクアドルで会う先住民の多くもスペイン系の名前が多いのですが、キチュアの名前を持っているのは、今現在、どのくらいいるのですか。
アウキ:若者グループの参加によって、名前を使えるようになりました。先住民の名前が使えるようにするための闘争があり、1980年に至るまでは、先住民の名前を使うことが法律で禁止されていました。その理由は、外国人のような名前であるとか、非文明的であるというものです。その後の長い戦いの中で法律の改正に結びついて、私の場合は1992年、スペイン人が新大陸を征服して500年の年に抵抗の証として改名を決意しました。昔のスペイン語の名前は、セグンド・アントニオ・アウキ・カナイマという名前でした。先ほど話した戦いは、平等のための戦いであったのですが、今に至ってキチュア語の名前を持つ子どもたちは10%くらいで、パーセンテージはまだまだ低いのです。
中村:アウキさんは子どもの頃は、どのような子どもでしたか。
アウキ:父はコロンビアで働いていて、その後ベネズエラのメリラという街に行きました。母は工芸品を製造する工房の責任者を務めており、工房を手伝っていたので、子どもの頃から仕事をして責任を持って活動をするということを行っていました。内容は、工芸品の原材料を調達したり、地元の工芸家たちを取りまとめるようなことをしていました。それとは別に勉強もしていましたし、子どもたちのスポーツをするグループで、リーダー的存在でもありました。ですから非常に忙しい子どもでした。
中村:アウキさんはその後、キューバで経済の勉強をされるようになるのですが、どういう理由で経済を勉強しようと思われたんですか。
アウキ:大学で勉強するということに関しては、父の強い意思が反映しています。ひとつ、父の思い出として残っているのは、頻繁に大学に行けという言葉を口にしていて、大学にいって私と同じ道(人生)をたどるなということを強く言われていたことです。父は私に機械工学というものを勉強してほしいと思っていたようです。実際に私が勉強したいと思ったものは、コンピュータ・航空関係・建築・経済の4つで、初めの2つのコンピュータと航空関係は候補から外れて、建築か経済の2つに絞られました。そこでまず、先住民の専門性・専門的知識という必要性の中から考え、すでに友達の中で建築勉強している人がいましたし、法律を勉強している人もいて、中にはジャーナリズムとして医療も勉強している人がいましたので、それらすべてを考慮して、経済学を選びました。
また、私が経済学を選んだ考えの先には、いずれは専門家を集めて必要性のある専門知識を生かせるグループの結成を考えていました。当時、政治的な意思というのはありませんが、発展というものを見据えて、専門家グループの結成ができればと願っていました。今までの個人的な考えというのが、偶然にもキューバでの奨学金を得るということにつながり、その奨学金を受けることになりました。奨学金を受ける段階に至っても、今考えてみればキューバに行くかエクアドルに残るかという選択肢はあったのですが、エクアドルに残っていたらその先に進むということが困難であったので、ハバナに向かうことを決意しました。
中村:それは何歳のときですか。
アウキ:84年当初は19歳でした。84年?90年の間は、常に奨学金を受けていました。
中村:今の話の中で先住民族の中には、ほとんど経済を学んでいる人がいないということでしたが、アウキさんは先住民の中で、経済を学んだ最初の人になるのですか。
アウキ:そうですね。今はもう増えてきていますが、その当時は誰も経済を学んでいませんでしたから、エクアドルにおいて初めて経済学を学んだ先住民になります。
中村:少しキューバのことについてお尋ねしたいのですが、先住民でエクアドルからキューバに奨学金を得て行った人は、同じ時期に何名ほどいましたか。
アウキ:84年は、私と妻のルースマリーナの2人です。おそらく20人の奨学生がいたのですが、先住民は2人だけでした。約10%程度ですね。その時期というのは、先住民が奨学金を受けるためにキューバ政府の意識改革を求める必要があったのです。当時キューバ政府が出す奨学金というのは、エクアドルの共産主義者、又は、社会主義者に対してのものであって先住民に対するものではなかったのです。ですから、そういう意味でも私たちが初めて先住民としてキューバ政府から奨学金を得たということになります。
中村:それは、そういう働きかけをしたという意味ですか。
アウキ:はじめ、直接対話する必要があったのですが、キューバ政府は「No」という返事を返してきました。もし、先住民として奨学金がほしければ、共産党に入りなさいなどと言われました。しかし、共産党に入ってもエリートでなければ奨学金は得られないので、先住民として共産党に入って奨学金を得るという方法には、こちらから断りを入れました。そのような態度がキューバ政府を動かして、先住民の学生をキューバ政府が受け入れてみようという流れになり、キューバ政府が変わっていきました。その後、私たちが最初の2人になり、初めは先住民は2人の参加だったのですが1990年の例を話せば、奨学生の中で60人が先住民という状況です。おそらく今では、150人くらいの専門家が生まれてきているでしょう。
中村:それは、エクアドルの先住民でそれくらいの数ということですか。
アウキ:国中の先住民の合計が60人で、コタカチだけで60人というわけではありません。私と妻が初めての専門知識を得た者になり、その後の活動によってコタカチでは、7人がキューバ政府の奨学生として学んでいます。
中村:私は、チェルノブイリ原発事故被害者の医療支援のためベラルーシやウクライナに6回ほど行っているんですが、現地でよく聞いたのが、キューバは放射能で被害を受けた子どもたちを数万人規模で受け入れて、無償で治療しているということです。日本には、こういった情報がほとんど伝わってきませんが、キューバはエクアドル以外からも大学に先住民を迎えているようですが、どんな国から何人くらい受け入れているのでしょうか?
アウキ:1?4年生まで含めて全体で、およそ2万5千人の学生が来ています。ベネズエラを例に挙げると、ベネズエラはより多くの支援を受けている国の一つで、ここ2?3年はベネズエラからだけでも5千?1万人の学生がキューバに学びに行っています。もちろん南米からだけではなく、世界中から学生が来ています。・アメリカ大陸をはじめ、アラブ諸国・ラオス・カンボジア・北朝鮮などからも来ています。
中村:アウキさん個人の話に戻りますが、19歳でキューバに行くまでにエクアドル国内で先住民の運動などはされたのですか。
アウキ:政治的な活動には参加していませんでした。文化的な動きとしての活動はしていましてが、やはり当時も資本主義の影響を大きく受けていたので、個人が利益を得るという動きに対しての影響が強く、政治的なものには全く参加していませんでした。
中村:いよいよキューバで経済学を学び始めることになるのですが、キューバで経済学を学び始めてアウキさんの心の中で変化したことは何かありますか。
アウキ:簡単に言えば、その他大勢の人のために奉仕するという考えが芽生えてきました。経済学のモットーの中に、より少ないものを用いてより多くのものを生み出すという考えがあります。そのようなことを学んで、そのような考えを通して私の中で生まれたのが、計画的な生産活動を通じてより多くの人たちに奉仕するという考えです。このことが私の中での大きな変化です。
中村:いま言われた変化していったこと、大勢の人たちに奉仕するという考え方についてですが、これはキチュア族の中にもある文化ではありませんか。
アウキ:そうです。例えば、先住民の中で誰かが家を建てるということになると、他の人が参加し、周りが助ける。また別の人が家を建てれば、参加してもらった人がその人を助けていく。というように、地域社会での活動ということです。このように先住民の文化の中には共同・団結というような意識がもともと根付いています。しかし、街では家を建てるときは一個人の責任において行っており、そこが一番大きな違いだと思います。共同・団結することが先住民の住む地域社会での慣わしであり、街に住む混血の人たちの生活様式との相違点であると考えています。
中村:キューバで学んでいるときに、様々な外国の人たちとの交流があったと思いますが、その交流の中で感じたことがありましたら教えてください。
アウキ:まず、世界の中の民であるということを認識しました。例えばアフリカという文化があり、アジアはアジアで別の文化を持っている。世界の多様性を肌で感じる経験でした。
中村:そのことは今の多様性を重んじるアウキさんの考え方につながっていますか。
アウキ:私は知事の仕事に就いてから、その他の国々と関係を持ったり、共同体制を敷いたりしていますので、つながってきています。先ほど述べた多様性は、個人の利益を超えたものになっています。また、ドイツ・スペイン・日本といった国々との交流も盛んになって活動が進んでいっています。
中村:キューバの大学で学んだ後は、キューバからエクアドルにすぐ帰ったのですか。
アウキ:はい。戻りました。
中村:戻ってからは何をされたのですか。
アウキ:まず、大学で教鞭をとっていました。その後、エクアドルの先住民組織の中での発展計画ですとか、アマゾンの開発計画などに携わるようになりました。その後は異なる団体で財務管理の仕事を行いました。
中村:これが90年ということは、25歳のときですか。
アウキ:はい。ちなみに大学で教鞭をとっていたのは、2年間です。先住民組織で役職を務めた後にイビスというデンマークの機関に勤め、その後、地域の開発機関で同様の仕事に就きました。いずれも先住民にかかわる仕事でした。
中村:そういった仕事をされてきて、どのようなことを感じましたか。
アウキ:皆の生活向上のためにということを第一に考えて活動していました。これは、実際に地域社会への協力ですとか、保健・衛生・生産活動での協力を通じての感想です。
中村:そういう活動を行っていく中で、コタカチ郡の選挙に出ることになるのですが、先住民の組織からの依頼で立候補したのですか。
アウキ:まずは、コタカチ郡の先住民団体のプロジェクトの一つとしての動きがありました。その先住民の動きというのは活発化していたし、政治的な活動も活発化していたので挑戦をするという気持ちを込めての活動が立候補することにつながりました。
中村:このときの立候補者は何人いましたか。
アウキ:96年は8人です。2000年が2人で、2004年が4人でした。
中村:その中で、先住民の立候補者は何人いましたか。
アウキ:毎回、私1人です。
中村:96年にアウキさんがコタカチで立候補しましたが、先住民が立候補するということは今までにありましたか。
アウキ:知事職への立候補はありませんでしたが、その下の評議会での立候補はありました。
中村:他の地域ではそういう立候補はありましたか。
アウキ:96年は他の地域に立候補した人は勿論います。他の地域で選挙に当選した人もいれば、落選した人も当然います。少ない数ではありますが、全国で5人くらいが立候補しています。
中村:そのとき初めて知事に立候補されて、先住民の人たちの意識・気持ちはどのようなものでしたか。
アウキ:一方では明るい展望を持つ人たちがいて、これから政治に参加できる、変革に向けての活動ができるという希望に満ちた考え方がありました。しかし一方では、悲観的な意見もあって私たちは何もできないのではないかという意識を持っている人たちもいたし、地域の自治体というのは、所詮白人に対する政治であるという意識を持っている人たちもいました。だからそういう意味で、いろいろな感情が入り乱れるという状況が生まれていました。
中村:この96年にアウキさんが立候補した支持母体は、どういう組織ですか。
アウキ:都市部においては自発的に支持をしてくれる個人の支持者に支えられました。96年というのは、女性・子ども・若者・地域といった各分野ごとの組織というのは全く見られませんでした。
中村:最初の96年の選挙でアウキさんが最も力を入れて訴えたことはどんなことですか。
アウキ:まず提案したことは、新しい自治体を創るということです。新しい自治体をつくると提案した理由としては、昔の自治体が先住民に対して排他的で非常に腐敗していたし、専門性に欠けていて戦闘的な政治をするような体制が敷かれていたことが挙げられます。ですから新しい自治体をつくって参加型の政治・計画的な政治・透明性のある政治というものを心がけるようになりました。
中村:今、コタカチで行われていることを最初の選挙のときからすでに訴え続けているということですね。
アウキ:一番の課題というのは平和なのですが、実際は新しい自治体を創り上げていくということが先住民の動きとなって、最終的には多様性のある国家・多くの人が集う国家というものを目的に掲げているという点は変わりません。
中村:そういうことを訴えてアウキさんが96年に当選されたのですが、そのときの先住民の人たちの気持ち、また先住民以外の人たちの気持ちというのは、どのようなものだったのですか。
アウキ:先住民の気持ちは先ほど述べたような大きな希望とか変革といったもので、先住民以外の人々の考えというのは、それほどの変革は望んでいなかったと思います。先住民の政治家を支えて、透明性を求めるということは考えていなかったと思います。
中村:当選してすぐに、子どもも含めて誰でもが参加できる「民衆議会」というものを始めるわけですが、これを最初に呼びかけたときには何人くらい集まりましたか。
アウキ:最初の民衆議会には300人が足を運びました。300人という数字が象徴していることは、今まで興味を持っていなかった人々がそれだけ集まってくれたということで、この数字は非常に意義のあるものだと考えています。
中村:これまでこうした場に参加したことがない人たちも含めて民衆議会が始まったわけですが、最初と今を比べて何か変化はありますか。
アウキ:参加の質と量という面で大きな違いがあります。今は民衆議会は制度化されていますし、条例などをつくるようになっています。ですから市民は、道路建設などを提案するようなこともありませんし、支援を簡単に求めるようなこともありません。議論を深いところまで掘り下げるところにたどり着いていますので、先ほども言ったように質と量の面で全く違うものになってきています。
中村:最初の民衆議会には、先住民の参加は何%くらいあしましたか。
アウキ:やはり混血の人たちが55%と一番多く、残りが先住民とアフリカ系の人たちです。
中村:アフリカ系の人たちというのは、5%くらいですか。
アウキ:そうです。だいたい5%です。55%が混血の人たち、40%が先住民、そして5%がアフリカ系という人口構図です。
中村:そうすると、先住民の人たちがこういう場を持てたけれど、参加する比率はやはり低かったということですね。
アウキ:参加の質の違いということがあるのですが、都市部になればそれぞれの業界の団体といったものが増えるので、例えば運転手の団体からは20人、また消防署・学校・病院といった公的機関の団体からは多くの人たちが参加することになるので、結果的な比率は混血の人たちが多くなります。一方田舎での場合を考えれば、仮に43の地域があったとして、1つの地域から2人だけを派遣することで86人になります。このように数の面から見ても劣る場合がありますが、参加の質という意味での違いが見られます。
参加型の予算決議というのを例に挙げれば、都市部においては決議に参加するのが40人だとすると、先住民地域では150人の参加があったりします。彼らの代表が、さらに民衆議会に来るということになりますので、より多くの人たちの参加が先住民地域では見られます。先住民の中では参加という文化が根付いていると言えます。具体的に説明すると、あるテーマを掲げて先住民の地域で話し合おうとしたら、その地域からすべての家族が参加します。一方、都市部では、あるテーマを扱うときにも街の一部の人しか参加しないという現状があります。
中村:96年にそれを始めて、生態系保全の宣言をしたのはいつでしょうか。
アウキ:2000年です。
中村:この生態系保全自治体という宣言は、私が知る範囲では南米ではなかったことですし、世界でもほとんど聞いたことがないのですが、これは世界で初めてなのでしょうか。
アウキ:正確にはわかりませんが、その情報を集めたりした中では条例ができたということはありませんので、おそらくほんの少ししかないであろう環境保全条例の中の1つと考えられると思います。世界的にも数少ない中の最初の一つです。
中村:こうした参加型の民主主義が世界から注目されるようになっていくのですが、特に世界に認められる国連の賞や、ユネスコの賞を受賞したということをコタカチの人たちはどのように思っているのですか。
アウキ:まず言えるのが、「信頼が得られた」「信頼感が生まれた」ということです。その信頼とは、地域に対する信頼、社会的生産性に対する信頼です。そして人々の間では、コタカチの人間であるという自尊心・幸福感も生まれています。また、様々な活動を展開する中で責任感も芽生えてきているので、肯定的な考えが広がってきていると思います。
中村:アウキさん自身は、こういった国際的な賞を受賞したことについてどのように感じていますか。
アウキ:自らの考えに対しても肯定的に捉えることができ、受賞することで正しい道を歩いているという自信も深まり、コタカチの人々、またコタカチの民主主義に対しても役立つ行動ができているという考えに至っています。
中村:アウキさんは、透明性ということをいつも強調されていますが、透明性を高めていったときに、そのことに抵抗する人たちはいなかったのでしょうか。
アウキ:言葉で伝えるというよりも、私たちが透明性を高めることを実現していく必要性の方が重要だと思います。やはり反対する政治家はいて、違う意見を言う人は多くいるのですが、それはこちらを欺くような言葉で反対的な意見を言うだけであって、何の根拠もない言葉を並べているので、私としては特に気にするようなものではありません。 民衆に知ってもらいたいもの、私が重要だと感じているのは、私は悪に手を染めていないということ、そして多くのお金が集まっても正しい管理をしているということ、それを伝え実践していくことが透明性を高めることになると考えています。
中村:透明性を高めていくと汚職が起きにくくなると思いますが、実際に汚職は起こっていないのでしょうか。
アウキ:頭で考えてもらうというところから入ると思うのですが、やはり100%汚職を払拭するということは、できないと考えています。コタカチにも公務員が多くいますが、彼らの中には不正を働いている人もいると思います。しかし、汚職というのはお金を盗むということだけではなくて、例えば虐待をするであるとか、決められた労働時間の8時間のうち、心を込めて仕事をしていないというのも社会に悪影響を及ぼすという点で、汚職の一部と考えています。ですから、私がいつも考えているのは、自らが模範となることであって、変革に対する模範を示し続けることが汚職の撤廃につながると考えています。
中村:アウキさんがいつも話されていることで、ここでもう一度確認をしておきたいのですが、アウキさんが考える本当の発展とはどのようなものなのか教えてください。
アウキ:まず考えられるのが均衡のある発展で、均衡というのがとても重要になってきます。確かに物質的な幸福もありますが、精神的な幸福が重要です。動物・植物の多様性を重んじるということも含まれます。ですから道路だけをつくるとか、インフラを整備するということだけが発展とは考えていません。
中村:そうしたアウキさんの発展に対する考え方は、コタカチ市民の中で共有されていると思いますか。
アウキ:コタカチの人が皆すべて同じ考えを持っているとは思いません。おそらく、発展というのはお金をもたらしてくれるものだと考える人もいるでしょう。しかし、より重要なことは、コタカチの人びと一人一人が「本当の発展とは何か」を自分で考えることが大切であると私は考えています。
中村:今、コタカチ郡で大きな問題になっている鉱山開発のことについて話したいのですが、アウキさんが現状をどのように捉えているのか聞かせてください。
アウキ:鉱山開発に関しては、紛争が続いているという意味では以前と全く同じ状態です。やはり鉱山がある限り利益を求めて経済活動を考えて来る人は多いと思います。
中村:コタカチ郡では鉱山開発に反対して国が開発を推奨している現状がありますが、なぜ国は自然を破壊してまで鉱山を開発しようとしているのでしょうか。
アウキ:子どもの成長を考えたときに多くの人が物質的な幸せを求めるという一面があるので、中央政府の考えとしては、なるべく近道を通って経済的な利益を得ようとします。そこから鉱山開発に結びつくと考えています。コタカチ郡が鉱山開発に反対していて、国が賛成をしているところだったのですが、聞いてみたら以前の中央政府は鉱山開発に賛成だったのですが、今は現状が変わってきているのではないかと考えています。
中村:コタカチの参加型民主主義というものがドイツやイタリアなどヨーロッパで支持をされていますが、そうした中で、地域住民や自治体が反対をしているのに、その思いを無視するような開発が行われています。コタカチの取り組みを評価している外国の人たちは、その事実を知っているのでしょうか。
アウキ:報告などを出していますから、そういったものを通じてコタカチの開発に関する知識は持っていると考えます。
中村:アウキさんとしては鉱山開発の問題を、今後どのようにして解決していこうと考えていますか。
アウキ:法的な手段によっての解決を求めていきます。また、地域の組織を通じての解決方法も考えています。
中村:この鉱山開発という問題は、先進国の人々の生活様式と密接に係わっています。例えば、日本人の多くは携帯電話を持っていますが、携帯電話というのは短期間でモデルチェンジが行われ、一年に何度も新しい機種が発売されます。その度に、今まで使われていたものが大量に捨てられています。このことは、携帯電話に限りません。多くの電化製品に金属が使われていますが、それらを使い捨てにすることが、新たな鉱山開発、新たな自然破壊につながっています。そういった先進国での使い捨ての生活様式を改めていくことが非常に重要だと私は思っているのですが、アウキさんはこういう問題をどのように考えていますか。
アウキ:使い捨てのある文化というのは無責任だと思います。私たちの地域のようなところと物質主義の社会は両立不可能と考えています。ですからそのような先進国に対しては、使い捨ての文化が受け入れられないように努力してもらうのと、きちんと責任を持って管理を行ってほしいと考えています。
中村:今、インタグのコーヒーを日本で販売しているのですが、その中で重要だと考えているのが産地の情報をできるだけ詳しく日本の消費者に伝えて、そして産地の問題があれば一緒に考えていこうということをやっています。そこで、この鉱山開発の問題もできるだけ多くの日本人に知ってほしいと思って取り組んでいます。コーヒーを買ってくれる人たちに対して何かメッセージがあればお願いします。
アウキ:コーヒーの生産者は伝統的な生産方法から新しい技術を取り入れつつ、新しい人生を勝ちとるために努力しています。ですから消費者の皆さんには、インタグコーヒーを飲むときに私たちが地域の発展に対して明確な意識を持って生産しているということを感じてもらいつつ飲んでいただきたいと思います。
中村:エコツーリズムというのがコタカチの重要な産業ですが、このエコツーリズムを行う上でもインタグ地域を訪問して、ただ単に美しい自然を見るだけでなく、コーヒー農園を見学したり、生産者と交流することが重要な意味を持っていると思います。エコツアーに取り組み始めて、どのような広がりが出てきていますか。
アウキ:エクアドルの中においてもエコツーリズムというのがオルタラティブな経済だと認識しています。様々な団体とのつながりをより強めるような活動を通して団結を得ることによって、この活動の発展も見られてくると考えています。
中村:最後に2つお聞きしたいと思います。一つは、クリキンディという名のハチドリが「私は私にできることをやっている」という話が持っている意義についてアウキさんはどのように考えていますか。
アウキ:クリキンディの話は、人びとの意識を呼び起こすという象徴的なメッセージを抱えていると考えています。我々が実践していかなくてはならない役割を要約して伝えている話だと思います。
中村:本当に忙しい中で日本に来ていただいたのですが、日本の人たちへのメッセージがあれば、お聞かせください。
アウキ:団結・責任・平和な世界・社会の変革を求める主人公たちが、まず平和を維持することが必要であると感じています。この考えをインタグの人々と何千年もの歴史を持つ日本人の間で共有できればと考えています。そうした意識を先住民と日本人の間で共有できしたら、一つの光が見えてくると思います。このような動きを通じて平和の文化を共に生み出していければいいですね。