3月、国と県は放射性物質の拡散予測を公表せず、住民が大量被ばく

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【浪江町の津島避難】 
線量情報なく町民孤立 国と県、予測伝えず 安全信じ…空白の4日間
(2011年12月11日 福島民報 3.11大震災・検証)

 東日本大震災から11日で9カ月を迎える。震災と東京電力福島第一原発事故により、今も多くの県民が県内外で避難生活を送る。原発から北西に約25キロ離れた浪江町津島地区。事故後の3月12日から4日間にわたり、多くの町民が避難生活を送った。国は12日、津島地区がある原発から北西方向への放射性物質拡散を予測し、13日には地区の10キロほど東側で高い線量を計測していた。しかし、国、県からは何も伝えられず、町は線量を把握できずにいた。

■避難者あふれる

 「津島に行こう。支所があるし学校を避難所として使える」。国の避難指示が原発から10キロ圏に拡大した3月12日、浪江町災害対策本部会議で幹部職員の意見が一致した。町内の津島地区は誰もが安全だと信じていた。

 原発から29キロほどの距離にある町津島支所。固定電話は一切使用できず、無線もない。通信手段は時折つながる携帯電話だけだった。根岸弘正町総務課長(58)は放射性物質の飛散を心配していた。12日午後には国の指示は20キロ圏内の避難に拡大された。「まだ、それよりは10キロほど離れている」。不安を打ち消した。

 人口1400人ほどの津島地区は約8000人の町民であふれた。津島小、津島中の体育館では避難住民が肩を寄せ合う。馬場績町議(67)の自宅にも22人が寝泊まりした。見知らぬ顔もあった。避難者は井戸水や沢の水を飲み、しのいだ。

 避難者の多くは津島地区で避難生活を続けた。車のガソリンが底を突くケースもあった。馬場町議は「町の災害対策本部がとどまっていたため、避難住民は安全だと思っていた」と振り返った。

 14日夜、津島地区の南に隣接する葛尾村で「全村避難する」との防災無線が流れた。静かな山あいにある津島地区にもその声が届いた。「ここにいて本当に大丈夫なのか」。避難住民に動揺と不安が一気に広がった。

■伏せられたデータ

 原子力安全技術センター(東京)は震災直後から一時間ごとの「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)」の試算を開始した。12日には津島地区への放射性物質飛散を示すデータもあった。

 根岸課長は後に公表されたSPEEDIを見て目を疑った。住民が避難した津島地区は茶褐色の線に囲まれ、高線量を示していた。「(線量の)情報さえあれば…」

 国は試算が不正確で誤解を招くとして公表を見送った。しかし、早い段階で公表していれば避難の参考になったと国の対応を非難する声もある。

 県は13日にSPEEDIの試算結果をファクスで32枚、国から受け取っていたが、公表しなかった。その理由について「予測の前提となる放射性物質の放出量が現実と懸け離れていると考えられた」と説明する。

 12日の県の調査で町中心部の酒井、高瀬地区は高い線量が計測されていた。津島地区から10キロほど原発寄りの町内室原地区は13日に国の調査が行われ、線量計は毎時30マイクロシーベルトを振り切った。しかし、国や県から放射線の情報が町に伝えられることはなかった。

 14日正午ごろ、根岸課長は3号機の爆発を伝えるニュースに言葉を失った。これまで漠然と抱いていた不安が一気に強まった。

 町は線量計2台を保有していた。12日、町は線量計が必要になると想定せず、町役場に線量計を置いたまま移動していた。「数日後には役場に戻れると思った。事態がどんどん悪化するとは…」。町の関係者は今も悔やむ。

町民被ばくどれほど 不安、悔恨、憤り… 浪江町の津島避難

 浪江町の避難は3月14日午前11時1分、東京電力福島第一原発3号機の爆発で急展開する。津島地区に滞在していた住民には不安が渦巻いていた。

■苦情相次ぐ

 浪江町は3月14日午後から断続的に対策本部会議を開き、再避難するかどうかを協議した。「一刻も早く避難すべきだ」。周辺の放射線量の情報は全くなかった。それでも避難の必要性を訴える意見が相次ぎ、移転先は二本松市に決まった。

 15日朝、馬場有町長が二本松市に受け入れを要請した。同日午前10時、町は津島地区の区長を集め、住民らに避難を呼び掛けるよう求めた。

 町の移転とともに、住民の避難がせきを切ったように始まった。町のバスで二本松市に向かう避難者もいれば、会津地方や県外に車を走らせる町民もいた。ただ、家畜の世話などを理由にとどまる住民がおり、町は支所に職員数人を残し、避難の説得に当たった。

 津島地区は16日の測定で毎時58.5マイクロシーベルトの放射線量が計測され、4月22日に計画的避難区域に設定された。局地的に放射線量が高い場所も見つかった。7月26日時点で、赤宇木は最大毎時26.3マイクロシーベルト、南津島は同40.1マイクロシーベルト。避難の目安となる年間積算線量「20ミリシーベルト」を短期間で上回る線量が計測された。

 津島地区で過ごした住民は再避難後も被ばくの恐怖におびえる。「なぜ危ない津島地区に避難したんだ」。町には春から夏ごろにかけ、このような苦情が多数寄せられた。

 「町職員の誰1人、津島地区の放射線量を把握していなかった」。苦情の対応に当たった担当者は、放射線量の情報が全くない当時の状況を繰り返すしかなかった。

■子どもの将来は

 「子どもの将来は大丈夫なのか」。県北地方の仮設住宅で暮らす40代女性は不安に駆られる。8月に茨城県東海村で受けた内部被ばく検査で、高校生の子どもから微量の放射性物質が検出された。

 女性の家族は町の避難指示に従って3月12~15日まで津島地区の避難所で過ごした。水はミネラルウオーターを飲んだが、野菜などの食材は沢の水で洗っていた。

 検査の担当者から「体に影響はない」と説明されたが、結果を知った子どもは食事を取らずにふさぎ込んだ。子どもを励ます言葉は見つからなかった。「何を根拠に津島にとどまらせたのか。線量が計測できていれば、安全か、危険かの判断はついたはずだ」。国、県、町の対応に憤る。

 自身を責める母親もいる。津島地区に一家4人で避難した女性(40)は「一生、子どもに謝り続けなければならない」と表情をこわばらせる。夫(41)、中学2年の長女(13)、次女(3つ)の4人で15日まで津島地区の親戚宅に滞在した。

 退屈する次女を外で遊ばせていた。次女は内部被ばく検査の対象年齢に達していないため、検査を受けることはできない。「ごめんなさい。遊んだあの場所の線量が高かったかもしれないの」

※内部被ばく検査 警戒区域と緊急時避難準備区域、計画的避難区域、特定避難勧奨地点の住民のうち4歳以上を対象に6月から始まった。3歳以下の乳幼児は、行動を共にしていた保護者が対象。10月31日現在、6608人が検査を受け、浪江町では2618人が受けた。また、甲状腺検査は10月から始まり、3月11日時点で18歳以下だった全県民を対象にしている。

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