重要な記事がありましたので、紹介します。
ドイツTAZ紙:デルテ・ジーデントプフ医学博士インタビュー
(2011年2月27日 Canard Plus)から転載
ソース:TAZ:Ärtztin mit sozialer Verantwortung (社会的使命感を負った女医)
女医デルテ・ジーデントプフは、20年来、チェルノブイリの子供達を療養滞在のためドイツに招聘し続けて来た。彼女は、福島事故に対する措置に、ただただ唖然としている。(ガブリエレ・ゲートレ取材)
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12月初旬、ジーデントプフ博士は私達取材班を、ベルリン・パンコフの市民公園沿いにある彼女の小さな屋根裏のアパートに迎え入れてくれた。 お茶とクッキーをはさんで、今までの救援活動や経験について語ってくれる。
「一番ひどいのは、責任者達がチェルノブイリから何一つ学んでいないことです。チェルノブイリ事故よりもさらに規模の大きい福島原発事故に対する対応ぶりには、私は茫然自失としています。日本政府が避難地区を事故に見合った範囲に拡大しなかったこと、女性や子供達を即座に安全な南部に避難させなかったことに対しては、ただただやり場のない怒りを感じるだけです。そうした適切な措置を取る代わりに、国民はシステマティックに騙されてきました。実際の危険に関する情報は伝えられない、あるいは伝えられても誤った情報である。なんという無責任でしょう。これから日本の方々を襲おうとしている健康問題は想像を絶します。しかも政治と原子力産業はそのことを黙認しているのです! 世界中で!
チェルノブイリの先例を見れば、事故の規模についてはある程度想像が出来るでしょう。多くの人々がチェルノブイリははるか昔のことだ、ウィキペディアで調べられるような過去の事故だと考えています。しかし汚染地域の住民達は1986年から現在までチェルノブイリ事故と共に生活してきているのです。事故による被害は収束するということを知りません。自然災害と違って、原発事故の被害は時間の経過と共に減少していく代わりに増大していくのです。しかもその期間は今後少なくとも300年間にも及びます。このことに関しては後ほどもっと詳しくお話しましょう。(Gesundheitliche Folgen von Tschernobyl, 20 Jahre nach der Reaktor- Katastrophe )」
人々は何十年にも渡って汚染地域で生活してきた
「その前にまず 何故私達が援助活動をベラルーシーで始めるようになったのか、手短にお話しましょう。チェルノブイリ事故による汚染地域の大部分はベラルーシーにあるのです。当時のソ連邦に降下した放射性物質の70%が当時の旧ソ連ベラルーシー共和国に降り注ぎ、国土のおよそ四分の一が放射能汚染されました。ベラルーシーの国境は原子炉から約15キロの距離にあります。
それだけではありません。事故後、風向きが変わって放射能雲がモスクワに向かい始めたとき、ヨウ化銀を用いた人工雨によって、大急ぎで放射性物質のベラルーシー領域への降下が促進されたのでした。もちろん住民には何も知らされませんでした。五月初旬のよく晴れた日、突然空からべとべとした黄色い雨が落ちて来たと人々は語ります。 このことは長年の間住民に明らかにされず、ただ移住が行われ、指令が出され、人々をなだめすかせるようなことが行われただけでした。計測器は厳重に禁止されていました。
特に汚染がひどかったのがゴメルとモギリョフでした。このモギリョフ地方にあるのが、私が20年来足を運び続けている小都市コスジュコヴィッチなのです。ゴメルとモギリョフ両地方は大きな面積が放射能汚染され、約百万人が移住させられましたが、移住を実行するためにはまず大きな都市や区域に家々を建設しなければなりませんでした。ミンスク(ベラルーシー首都)周辺には大きな街が建てられました。新しい住居に移住できるようになるまで、多くの人々は十年間も汚染地域に住み続けなければなりませんでした。そして今でも多くの人々が汚染された土の上に住み、農業に従事しています。
ソ連邦が崩壊した後には、こうした措置の責任はすべてベラルーシーが負うことになりました。私達の「区域」だけでも8000人の住民が移住させられました。26の村が取り壊され、土に埋められました。放射能汚染地域の村々の多くは、空っぽのまま取り残されています。そこには老人達が帰郷したり、町で生活していけないアフガニスタンやチェチェン戦争の旧軍人達が住み着いたりしています。
チェルノブイリ周辺の閉鎖区域でも似たような光景が見られます。古い村に人々は電気も水道もないまま住み続け、自分達の手でなんとか生き延びています。この地域の地面は砂地です。ベルリンと同じで、白樺の森はベルリンからモスクワまで続いています。この土地では地下水は浅く、放射性物質が年に2センチずつ沈下していくと考えると、現在では地下50センチまで達していることになり、地下水まであとわずかです。
国家予算の半分
そういうわけですから、彼の地では大々的な変革が起こりました。ベラルーシーは莫大な医療費を負担しなければいけませんでした。チェルノブイリ事故後十年、十五年に渡って行われてきた国土に対する対策、校庭の除染ですとか、取り壊しなど。いったいその汚染土がどこに運ばれていったのか私は知りません。こうした費用はすべてベラルーシーが負担しなければなりませんでした。おそらく国家予算の半分はチェルノブイリ事故処理のために消えていったと思われます。
とうとうある時期、ソ連時代のような比較的気前の良い措置を実施し続けることは望まれなくなり、また続けることも不可能になったのです。ルカシェンコ大統領がチェルノブイリ事故は収束したものであり、博物館に収めるべき過去の出来事であると発表したのはそのためです。放射能汚染されていたベラルーシーの地域はすべて安全になったと公式表明されました。
旧リキダートア達(事故処理作業員)で証明書を保持する者には、事故後20年間、「石棺費」と呼ばれる補償が支払われてきました。また移住をさせられた人々も請求権を所持していました。こう言った手当てが広範囲に中止されてしまったのです。決して多額ではありませんでしたが、その他に無料に施されていた医療手当ても廃止されてしまいました。またチェルノブイリ事故の影響と認められてきた幾つかの病気も、現在では容易には認められなくなりました。
事故を起こしたチェルノブイリ原発とその周辺地域には、およそ百万人の「事故処理作業員」 が送られました。ほとんどが若者です。そして多くがベラルーシー出身でした。今日こうした作業員のほとんどが身障者です。肺癌、甲状腺癌、心臓疾患、腎臓や胃腸の障害、白血病のほか、精神病を病んでいる者もあります。すでに約十万人が40~50代で亡くなっています。自殺をした者も数多くあります。それなのにあっさりと「チェルノブイリは過去のものだ」といわれるのです。ミンスクでは抗議運動が起こりました。そして現在キエフでも旧リキダートア達が、ウクライナ政府が目論んでいる年金や手当て打ち切りに対してハンガーストライキを行ったところです。
例えばベラルーシーでは、被害者達は幼稚園や学校給食が無料だったり、子供達は特別のヴィタミン剤や保養を受けることも出来ました。保養こそ今でも年に一度受けることが出来ますが、その他の措置はすべて打ち切られてしまいました。ヴィタミンたっぷりの給食もです。被害者達は今でも証明書を所持していて私達に見せてくれますが、実際には価値がなくなってしまったわけです。事故当時の請求権はすべて廃止されてしまったのです。
そもそも収入が少ない上に体も壊している人々にとって、こうした廃止や短縮はすぐに響きます。今もちょうど毎年恒例の地方税増税を行ったところです。つまり水道代と暖房費。例えばこの暖房ですが、田園地帯を通って耐寒措置の施されていない配管から都市や大きな住宅、団地に送られるので、途中で多くの熱が失われてしまいます。そして人々は失われた暖房分も支払わなければなりませんから、村に住んだ方が安くあがることになります。
国民の生活を圧迫する国家巨大赤字は、確かにチェルノブイリ事故処理を原因とする面もありますが、ずさん極まりない経済体制によるところも大きいのです。ベラルーシーのハイパー・インフレは目下113パーセントにも昇ります。国民の平均所得は月々150~300ユーロ(約1万5千円~3万円)です。外国での就労は認められていません。
反対運動はまったく存在を許されない
ベラルーシーと新たなEU参加国であるポーランドやラトヴィア、リトアニアへの国境は非常に近いです。しかし問題はお金や国家破綻の脅威だけではありません。20年間この国はどうにも民主主義を樹立させられずにいるのです。政権に対する反抗はまったく許されません。それでもなお抗議運動が起こるのです。新しい原発建設と言うとんでもない政治決定に対する抗議です。
ベラルーシーは原発を所持しません。しかし福島原発事故後間もなくルカシェンコは、ロシアの支援を受けて、リトアニアとの国境から20キロの場所にあるオストロヴェッツに原発を建設すると発表しました。その後ルカシェンコとプーチンの間で契約も締結されました。建設費用は50億ユーロ以上掛かると言われていますが、この新型でまったく安全な原発により、クリーンで安価なエネルギーの供給が可能になり、雇用も増加するというお決まりのプロパガンダが行われています。東でも西でも原発産業はまったく変わりません。
(中略:デルテさんのベラルーシー訪問や支援活動について語られますが長いのでいったん略させていただきます)
さて、現地の人々の健康状態についてお話しましょう。ドイツでは耳にすることのない内容です。次のことをよく念頭に入れておくことが重要です:事故から時間が経過するとともに、人々の健康と生物学上の被害は甚大になっていくのです。ドイツ政府もマスコミも、ルカシェンコ大統領と同じ様にこの事実から目を逸らそうとしています。事故は過去のもの、博物館入りしたものと言う政治決定がなされたからです。
身を隠す母親たち
チェルノブイリ事故後、様々な異なる被害の波が発生しました。最初の波はまず成人に襲いかかりました。リキダートア達、放射能汚染した村を訪れた医者やその他の人々、そしてそう言う場所に住んでいた人々の多くが間もなく癌で亡くなったのです。またもう一方で、間もなく子供達も被害を受け始めました。ベラルーシーではヨード不足が蔓延しています。ベラルーシーには海岸がありませんから。その点日本は幸運でした。蔓延するヨード不足のため、ベラルーシーの子供達は甲状腺に大量の放射性ヨウ素を取り込んでしまいました。放射性ヨウ素は半減期が短いので、最初の十日間で取り込まれたことになります。
またチェルノブイリ事故後、被害を受けた妊婦を全員堕胎させる試みが行われました。しかし一部の妊婦達は身を隠してしまったのです。そしてその翌年生まれてきた子供達の間にも、甲状腺癌が現われたのでした。甲状腺癌はチェルノブイリ事故以前には子供にはまったく見られなかったのに、今では4000人の子供の甲状腺癌がベラルーシーでは公的に認められています。この子供達は手術を受け、放射性治療を受けました。それでも一生ホルモン投与を続けなければ、クレチン病 (甲状腺機能低下による先天性の病気; 体の奇形・白痴症状を伴う)を患ってしまいます。こうした一連の治療は、後年発症した機能障害のケースも含めて、事故から25年が経過した今日でも無料で行われるべきです。
続く世代には血液の病気が増発しました。ですから私達は「チェルノブイリは遺伝子の中で荒れ狂っている」と表現するのです。そしてこの現象はあと300年間続くことになるでしょう。これはストロンチウムとセシウムの半減期30年を十倍して計算した大まかな期間です。そして少なくとも7から8世代を意味します。半減期が2万4千年のプルトニウムには言及しません。糖尿病も問題の一つで、成人のみならず子供や特に新生児に見られます。かつてはありえなかったことです。
糖尿病に対して、ベラルーシーは二種類のインシュリンを購入して、すべての患者に対応しようとしています。しかし子供には少なくとも三種類のインシュリンが必要です。これはNGOが面倒を見なければ、手に入らない状態です。NGOはまた、不足している知識を人々に広める役割も果たしています。さらなる問題としては、子供の視力障害、白内障が挙げられます。また女性の間では乳癌が増加し、患者の多くは5年以内に命を落としてしまいました。もしかしたら被曝によって引き起こされる癌は、通常の生活の中で発生する癌よりもタチが悪いのでしょうか?
奇形の数も増えました。堕胎は大きなテーマです。ベラルーシーには避妊費用を負担できる人がほとんどいないのです。ですからこれは大きな問題です。また逆に不妊に悩む夫婦の問題も発生しています。コスチュコヴィッチでは30%の夫婦が、望まない不妊に悩んでいます。また現在6,7,8,9歳の子供達の間で悪性腫瘍が増加し、新たな問題となっています。脳腫瘍や骨の腫瘍です。
まだまだ問題はあります。放射能汚染した地域では、傷口がなかなか癒えないのです。これはドラマチックでした。原因は免疫力の低下。骨に取り込まれたストロンチウムのせいです。骨の中では血液が製造されますが、それが常に被曝を続ける状態になるわけです。ちょうどエイズと同じような状況で、抗体が製造されなくなるために予防接種が効かないのです。そのために予防接種にも関わらず急性灰白髄炎(ポリオ)が増加しました。予防接種が効かなくなったせいと栄養状態が悪いせいで結核も増加しました。その上人々は自家菜園に雨水を撒き、秋になると今でも汚染度の極めて高いキノコや野いちごを収穫します。
傷ついた細胞
被曝が直接引き起こす健康被害にはまた、身体又は精神に障害を持つ子供の増加があります。女性の卵巣は胎児の状態ですでに形成されることをよく知っておかなければなりません。そして細胞の多くは約8百万個の卵胞に発達します。母体が受けている傷はすべてこうした細胞に伝達されます。胎盤という保護膜がありますが、よりによって放射性物質はこの部分に凝縮しやすいのです。傷ついた卵子は修復されることができません。誕生時に1~2百万個が傷ついていることになります。思春期では約40万個がまだ残っています。依然傷ついたままの卵子を持った母体が妊娠すると、それに応じた障害が引き起こされるのです。もう一つ知っておかなければならない大事なことがあります。こうした遺伝子の障害や癌と言った症状の原因はすべて低線量被曝 だということです。これはリキダートア達を襲った被曝症状とは別物なのです。そして責任者達はこのことを頑なに認めようとしていません。
身体に取り込まれた人工放射性物質が内臓器官を傷つけるのは、波長の短い放射線を発するためです。放射性物質が細胞を傷けた場合起こりえる現象は四通りあります:
1)細胞は死亡する
2)細胞の機能が障害を受ける
3)細胞は劣化し癌に変わっていく
4)細胞は修復される
4)が可能なのは成長した細胞だけです。胎児には修復機能は全く備わっていませんし、子供の細胞も修復はできません。子供の細胞は成長と分裂を行うように出来ているだけで、修復機能は徐々に取得されていくものなのです。そのため、子供達はひときわ被曝の脅威にさらされています。福島の妊婦と子供達が即座に避難させられなければいけなかったのもそのためなのです!
原子力産業の規模というものは、私達などにはまるで想像も及ばないほど巨大なものです。あまりに多くの経済的利権、お金が背景に絡んでいます。そして原子力産業とそのロビイスト達(これに含まれるのは政治家や関連組織ですが)は、徹底して冷笑的な存在であり、それに見合った行動を取ることだけは私達にもわかります。まずは被曝許容基準量が一番の例です。ベラルーシーとウクライナでさえ、被曝許容基準は私達(ヨーロッパ)よりも低いのです。とにかく世界には完全に中立の機関が一つとして存在しないのです。WHOには、放射線防護の専門家はたった1人しかいません。 それにどっちみちWHOは発言なんてできないのです。放射線問題に関しては完全に口を封じられてしまっているからです。1957年にIAEA(世界原子力機構)との間に結んだ協定によって、WHOは、本当の放射能危機に関するいかなる報告を行うことも阻止されているのです。私達はこの口封じの協定を断固として弾劾しなければなりません。IPPNWはこの協定の破棄を求めています!この協定を破棄することで、WHOはようやく自らの憲章前文を正当に実施することが出来るようになるかもしれません:「最高水準の健康に恵まれることは、 あらゆる人々にとっての基本的人権のひとつです。」
IPPNWは、2011年8月に公表したFoodwatch リポートにおいて明白な表現を行っています:「許容基準の設定とは、結局のところ社会が許容する死亡者数を意味するのである。」
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医学博士デルテ・ジーデントプフ。1942年オルデンブルグ(北ドイツ)生まれ。同地でアビトゥア(大学入学資格)まで学び、1961年からヴュルツブルグ、ベルリン、ゲッティンゲンで人間医学を学ぶ。1966年学位取得試験、1968年博士号取得。1967年結婚し、子供二人を持つ。1970年からはヘッセン州ディーツェンバッハの共同診療所に一般医・心理セラピストとして常勤。2003年現役引退。
ジーデントプフ博士は1981年の創設当時からIPPNW(核戦争防止国際医師の会)に所属する。
90年代はじめ「ディーツェンバッハ・コスチュコヴィッチ友の会財団」を設立。年二回、ベラルーシに医療器具、衣服、自転車、ミシン、コンピューターなどの支援物資を送付するなどしている。
ドイツでは20年来、チェルノブイリの子供達のための療養滞在が組織されて来ている。ディーツェンバッハ市ではホストファミリーが毎年夏にベラルーシーの子供達を迎える。今では「友の会」はメンバーの数も増え、コスチュコヴィッチ市との間に数々の交友を実現させてきた。何人かの実行グループのメンバーが世話を一手に引き受け、寄付金や物資支援も募集している。2009年チェルノブイリ事故から23周年の日には、両市は姉妹都市となった。ジーデントプフ博士は医師の夫を持ち、子供が二人いる。父親は地方医、母親は教師で主婦だった。