考・原発 私の視点 佐高信 メディアは批判を貫け
(西日本新聞 2012年2月10日)
原発を批判する曲を収めたロックバンド「RCサクセション」のアルバムが1988年に発売中止になった。新聞やテレビの多くがその騒動を報じたが、反原発の主張に正面から向き合うことはなかった。作詞した故忌野清志郎さんが曲中で37基もあると嘆いた原発は現在、54基に増えた。
「昨年6月に東京電力の株主総会を見に行きショックを受けた。総会の映像が映る取材部屋に『録音、録画、中継はご遠慮願います』と書かれた大きな張り紙があり、200人ぐらいの取材陣が誰も文句を言わない。東電の取材規制を問題と思わない記者の姿勢に、これでは駄目だと思った」
「電力会社は地域独占で、代わりに供給責任を負っている。できなければ独占をやめるか、責任を取り社長が辞めるしかない。しかし、メディアは追求をおろそかにしたまま東電が使う『計画停電』という言葉を平然と流した。使うならかぎかっこに入れ、自らの言葉ではないと意思表示すべきだ。福島第一原発事故は、メディアの敗北と、その後も負け続けていることを如実に表している」
事故後、マスコミに対する市民の視線は厳しい。インターネット上では「原発推進側にマスコミもいた」「事故や放射能汚染の本当の情報を伝えていない」と批判が上がる。
「メディア不信は、いろんなことを追求してほしいとの思いがあるから。しかし情報を伝えるパイプの最初の部分、つまり取材姿勢や言葉の選び方から問題があり、東電や政府の発表をなぞる形の情報しか出てこない。これでは国民が知りたい情報は流れない」
「上品ぶって提言や代案にこだわり始めてからメディアは堕落した。電力がないと大変だとか、経営者のようなことを言うようになった。『批判ばかりしている』と言われるのが怖いのだろうが、批判を徹底できていないことをもっと怖がりなさい、と言いたい」
昨年6月に「原発文化人50人斬り」(毎日新聞社刊)を出版。推進に加担したと考える著名人の名前を挙げ厳しく批判した。「地方紙も加わった原発安全キャラバン」の項では、経済産業省が2009年に全国で開いた高レベル放射性廃棄物「地層処分」シンポジウムなどの催しに、西日本新聞社をはじめ多くの新聞社が関わっていたと指摘する。
「批判覚悟で実名を挙げたのは、そうしなければ彼らは全然こたえないからだ。お金をもらって太鼓をたたいてきた人もいる。科学者で原子力資料情報室をつくった故高木仁三郎さんのように、交通事故を装って危ない目に遭いながらも、原発反対運動を貫いてきた人との差は何なのか。福島のような事故を起こさないためにも、個人の責任の追及が必要だ」
「中立公正というお題目もおかしい。これまで圧倒的な原発推進翼賛体制の中で、弾圧された反対意見を極論だと切り捨てた。偏らないと装いながら、原発推進に百パーセント偏っていた。これが原発事故を引き起こしたと言ってもいい。中立公正の欺瞞はもう許されない。市民が『偏ってない意見を』と求めたこともメディアを駄目にした。市民の側も自ら深く考え、責任ある市民であるべきだ」