生協を退職した中村は、1987年9月に有機農産物産直センターを設立。独自の産直活動を目指し、無農薬野菜だけでなく、無添加食品や石けんなどの販売をはじめた。
しかし、その2ヵ月後、中村は病に倒れる。有機農産物産直センターの経営は軌道に乗らず、精神的な不安と過労は重なり持病が悪化。70キロだった体重は50キロまで激減した。
それでも中村は無理して働き続け、体調はさらに悪化した。近所に住んでいた顔馴染みのおばあさんに手を引っ張られ病院に連れていかれたときには、「ここ 2、3日がヤマ」という危険な状態だったという。生死をさまよいながらも、福岡県有機農業研究会の会長でもある安藤孫衛医師の無農薬野菜と玄米をベースとした食事療法などにより、少しずつ回復していく。
病床で浮かんだある構想
入院中、ありあまる時間の中で中村が考えたことは、「自分にできることは限られている。焦って、自分の力以上のことに手を出すのはやめて、できることをひとつずつぼちぼちやっていこう」ということだった。そしてこのとき、彼の頭のなかには、ある構想が浮かんでいた。「南北問題の一つである先進国と途上国との不公平な貿易関係を無農薬コーヒーの産直によって、少しでも変えられないだろうか。野菜の産直活動で取り組んでいた方法をベースにして行えば、時間はかかってもきっと成功するだろう」4か月の入院生活の後、中村は退院した。
復帰後、1988年から中村は無農薬コーヒーの販売に専念する。まず無農薬栽培のコーヒー生豆を、南北間の公平な貿易に関心を持つ人たちと共同出資で仕入れた。
また新鮮なコーヒーを消費者に届けるため、中村は自家焙煎によるコーヒーの販売を試みる。焙煎に関しては素人だったが、多くの人の感想を取り入れながら味見を繰り返し、研究を重ねた。この自家焙煎の「無農薬コーヒー」の売上は順調に伸びていく。
しかし、この共同仕入れのやり方のなかでは、金額の面での公平な取引きは重視されたが、生産者とのコミュニケーションを深めることには、あまり関心が示されなかった。中村の目指す「互いの信頼関係をベースにした産直活動」には程遠いものだった。
「野菜の産直のときと同じように、まず一緒に取り組んでいける生産者を探そう」と考えた中村は、生産現場へ行くことを決意する。
「ジャカランダコーヒー物語」
ブラジルにて「不可能」と言われていたコーヒーの有機栽培を丁寧な土作りと「いのちを大切にしたい」という想いから成し遂げたジャカランダ農場。農場主の故カルロス・フランコさんとジャカランダ農場の軌跡をお伝えします。
- 第1話.カルロスの祖先から
- 第2話.カルロス・フェルナンデス・フランコの誕生
- 第3話.幼年時代、豊かな自然のなかで
- 第4話.父イザウチーノのコーヒー栽培
- 第5話.カルロスの原風景
- 第6話.初恋
- 第7話.青年時代、ブラジルの大河に橋をかける
- 第8話.ジャカランダ農場主として
- 第9話.農薬の到来
- 第10話.次女テルマからのレポート
- 第11話.カルロスと農場スタッフ
- 第12話.福祉活動との関わり
- 第13話.コーヒーの有機栽培へ
- 第14話.リスクを背負って
- 第15話.ジャカランダ農場が受けた被害
- 第16話.本当の豊かさを求めて
- 第17話.「幸運」な出来事
- 第18話.水俣病との出会い
- 第19話.無農薬野菜の産直運動
- 第20話.チェルノブイリ原発事故
- 第21話.病に倒れて
- 第22話.ブラジル、遠く広く
- 第23話.想いを全て伝えて
- 第24話.有機栽培の意味を実感するとき
- 第25話.苦境を越えて
- 第26話.視線は地平線の遥か遠くまで伸び
- 第27話.コーヒー樹に囲まれた生活空間
- 第28話.コーヒー樹を見守り続けて 〜現場監督 ニーノの仕事〜
- 第29話.労働のなかの静かな祈り
- 第30話.コーヒー園に響く幼子の声と歌
- 第31話.ジャカランダコーヒーの生豆、60キロの重さ
- 第32話.老いてもなお
- 第33話.夏の草刈り
- 第34話.日が暮れて
- 第35話.ある雨の日の事故
- 第36話.土曜の夜、協会で
- 第37話.ジャカランダ農場、故郷として
- 第38話.写真でたどるジャカランダコーヒーの旅路 -土から生まれて食卓に届くまで-