第21話.病に倒れて

生協を退職した中村は、1987年9月に有機農産物産直センターを設立。独自の産直活動を目指し、無農薬野菜だけでなく、無添加食品や石けんなどの販売をはじめた。

無農薬コーヒーの焙煎作業
無農薬コーヒーの焙煎作業

しかし、その2ヵ月後、中村は病に倒れる。有機農産物産直センターの経営は軌道に乗らず、精神的な不安と過労は重なり持病が悪化。70キロだった体重は50キロまで激減した。

それでも中村は無理して働き続け、体調はさらに悪化した。近所に住んでいた顔馴染みのおばあさんに手を引っ張られ病院に連れていかれたときには、「ここ 2、3日がヤマ」という危険な状態だったという。生死をさまよいながらも、福岡県有機農業研究会の会長でもある安藤孫衛医師の無農薬野菜と玄米をベースとした食事療法などにより、少しずつ回復していく。

病床で浮かんだある構想

入院中、ありあまる時間の中で中村が考えたことは、「自分にできることは限られている。焦って、自分の力以上のことに手を出すのはやめて、できることをひとつずつぼちぼちやっていこう」ということだった。そしてこのとき、彼の頭のなかには、ある構想が浮かんでいた。「南北問題の一つである先進国と途上国との不公平な貿易関係を無農薬コーヒーの産直によって、少しでも変えられないだろうか。野菜の産直活動で取り組んでいた方法をベースにして行えば、時間はかかってもきっと成功するだろう」4か月の入院生活の後、中村は退院した。

復帰後、1988年から中村は無農薬コーヒーの販売に専念する。まず無農薬栽培のコーヒー生豆を、南北間の公平な貿易に関心を持つ人たちと共同出資で仕入れた。

また新鮮なコーヒーを消費者に届けるため、中村は自家焙煎によるコーヒーの販売を試みる。焙煎に関しては素人だったが、多くの人の感想を取り入れながら味見を繰り返し、研究を重ねた。この自家焙煎の「無農薬コーヒー」の売上は順調に伸びていく。

しかし、この共同仕入れのやり方のなかでは、金額の面での公平な取引きは重視されたが、生産者とのコミュニケーションを深めることには、あまり関心が示されなかった。中村の目指す「互いの信頼関係をベースにした産直活動」には程遠いものだった。

「野菜の産直のときと同じように、まず一緒に取り組んでいける生産者を探そう」と考えた中村は、生産現場へ行くことを決意する。

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「ジャカランダコーヒー物語」

ブラジルにて「不可能」と言われていたコーヒーの有機栽培を丁寧な土作りと「いのちを大切にしたい」という想いから成し遂げたジャカランダ農場。農場主の故カルロス・フランコさんとジャカランダ農場の軌跡をお伝えします。

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