カンピーナスの学校で学んだ後、カルロスは1949年、19歳のときにサンパウロ大学の試験を受けた。農場では水力発電やコーヒー豆の精選機械の整備をしていたこともあり、電気関係に興味を持っていたカルロスは同大学の工学部に入学。24歳で電気機械技師の資格を得て卒業したときには、すでに土木技師の兄クロービスとC Fフランコ建設会社を設立していた。
初めの7年間は学校やビルの建設を主体にしたが、その後は、橋梁の建設を専門に取り組み、21年間に160もの橋梁を作った。そのなかには、高さ36メートル、長さ1キロにも及ぶものがあった。
橋の建設方法において、カルロスは独自の技術を確立し、数々の特許を得た。なかでも注目を集めたのは、橋を支える柱のなかに、鋼鉄線を埋め込む技術で、これにより橋梁の安全性を高めることができた。
・アマゾンでの最後の仕事
カルロスはこの仕事に嫌気がさしていた。この業界では政治家の汚職や談合が繰り返されており、それはカルロスにとって耐えがたいことだった。それでも公共事業の請負というかたちで仕事を得ていたカルロスの会社は、賄賂なしでは仕事を得ることは難しく、たとえありつけたとしても、自然環境の厳しい辺境での仕事しかまわってこなかった。
1968年から71年にかけて、カルロスはアマゾンの奥地、ロンドニア州で、橋の建設作業に従事した。場所は同州の首都であるポルト・ベーリョから約 220キロ離れたアリケーメス郡の山中。湿気と暑さ、熱病を引き起こすマラリア蚊に囲まれた過酷な条件の下で作業は行われた。
橋梁の架設作業とともに、カルロスは70人の労働者の健康管理にも時間と予算を費やさなくてはならなかった。辺りの湿気はひどく、またマラリア蚊の処理のため12時間おきに殺虫剤を散布した。それでも、マラリアにより4人の労働者が命を失った。カルロスの友人であり、現場監督を務めていたモイゼスもその一人だった。モイゼスはマラリアにかかったものの、一旦はその場で回復してサンパウロに戻った。しかし、その後に再発。風邪と誤診されたまま、適切の治療を受けることができずにこの世を去った。「サンパウロに帰らず、現地の病院で完全に治療させるべきだった」とカルロスは悔いる。モイゼスはこのとき45 歳。7人の子どもがいたという。
結局、このアマゾンでの仕事が、カルロスが経営するC Fフランコ建設会社の最後の仕事となった。
「ジャカランダコーヒー物語」
ブラジルにて「不可能」と言われていたコーヒーの有機栽培を丁寧な土作りと「いのちを大切にしたい」という想いから成し遂げたジャカランダ農場。農場主の故カルロス・フランコさんとジャカランダ農場の軌跡をお伝えします。
- 第1話.カルロスの祖先から
- 第2話.カルロス・フェルナンデス・フランコの誕生
- 第3話.幼年時代、豊かな自然のなかで
- 第4話.父イザウチーノのコーヒー栽培
- 第5話.カルロスの原風景
- 第6話.初恋
- 第7話.青年時代、ブラジルの大河に橋をかける
- 第8話.ジャカランダ農場主として
- 第9話.農薬の到来
- 第10話.次女テルマからのレポート
- 第11話.カルロスと農場スタッフ
- 第12話.福祉活動との関わり
- 第13話.コーヒーの有機栽培へ
- 第14話.リスクを背負って
- 第15話.ジャカランダ農場が受けた被害
- 第16話.本当の豊かさを求めて
- 第17話.「幸運」な出来事
- 第18話.水俣病との出会い
- 第19話.無農薬野菜の産直運動
- 第20話.チェルノブイリ原発事故
- 第21話.病に倒れて
- 第22話.ブラジル、遠く広く
- 第23話.想いを全て伝えて
- 第24話.有機栽培の意味を実感するとき
- 第25話.苦境を越えて
- 第26話.視線は地平線の遥か遠くまで伸び
- 第27話.コーヒー樹に囲まれた生活空間
- 第28話.コーヒー樹を見守り続けて 〜現場監督 ニーノの仕事〜
- 第29話.労働のなかの静かな祈り
- 第30話.コーヒー園に響く幼子の声と歌
- 第31話.ジャカランダコーヒーの生豆、60キロの重さ
- 第32話.老いてもなお
- 第33話.夏の草刈り
- 第34話.日が暮れて
- 第35話.ある雨の日の事故
- 第36話.土曜の夜、協会で
- 第37話.ジャカランダ農場、故郷として
- 第38話.写真でたどるジャカランダコーヒーの旅路 -土から生まれて食卓に届くまで-