働き者だったジョニが、自らをレイジーマンと呼ぶようになるまでの経緯を、振り返ってみよう。疫病と麻薬禍によって村落共同体や親族ネットワークといったカレン社会の基盤が揺らいだ危機の時代に、たびたび孤独と絶望の淵に立たされた少年ジョニにとって、伝統的な生活を守りながら細々と簡素に生きる老人たちとの交流こそが生命線だった。そこで得た温もりを糧にするかのようにして、彼は自分を支え、懸命に働き、多くを学んでいく。
(文・辻 信一)
蘇る伝統的な世界観
1970年代に北部タイで始まった国連の開発プログラムやロイヤル・プロジェクトに、ジョニも当初は希望を見出していた。このプロジェクトには2つの大きな狙いがあったといえそうだ。1つは、麻薬のためのケシ栽培を根絶すること。もう1つは、カレンをはじめとする少数民族による伝統的な“移動型焼畑”をやめさせること。これらの目的を、稲作と換金作物を組み合わせた近代的農業への転換によって成し遂げようというのである。
ジョニにとっても、ケシ栽培と麻薬禍からの脱却なしに、カレン族に未来がないことは明らかだった。そして、「緑の革命」とも呼ばれた農業の近代化による生産性の増大と収入の増加という約束も魅力的だった。その魅力の前では、現金収入につながらないカレン流の自給的な森での営みも、たしかに貧弱に見えたかもしれない。
しかし、時がたち、その近代的農業なるものの内部で経験を積むうちに、ジョニは自分が抱え込んでしまった矛盾に気づき始めた。貧困からの脱却を目指す自分の努力の内側に、伝統的な生き方や価値観の否定、つまり、カレン族としての自己否定が織り込まれていたのだ。
同時に、当初輝かしく見えた近代的農業そのものが抱えていた闇の部分が、ジョニにもはっきり見えるようになった。まず貧困からの脱却への道は険しいものだった。伝統的で自給的な生き方をあきらめて、換金作物へと切り替えた農民は、とたんに市場経済に呑み込まれた。機械、化学肥料、農薬、種子などへの投資のために借金を背負い、多くは増大するばかりの債務に苦しむ。かつての共同作業を支えた人間同士の結びつきをも失って、バラバラになった村人たちは、互いをライバルとして、羨望や軽蔑の目で見るようになる。そのことを、やがてジョニはこう表現する。「お金は目を閉じてしまう、心を閉じてしまう」
森を舞台にした伝統的な営みを手放さず、細々とでも維持できた者はまだましだった。多くの誤解を生んできた「焼畑」という言葉を冠せられたカレン族の伝統的な農法だが、今でなら、循環型森林農業とでも呼ぶべきものだ。70年代の経験を通じて、ジョニはパガニョ(カレン)語で「ク」と呼ばれるその伝統農法の価値を再認識することになったのだった。この再認識があってこそ、ジョッカド=レイジーマンへの変身もまた可能になったのである。
換金作物が不作に終わったり、獲れすぎて値崩れしたりしたときにも、数多くの在来種の作物を同じ畑で育てる「ク」なら、自分たちが食べていくのには困らない。また「ク」を支える村人たちの共同作業はコミュニティの生活全般を下支えし、そこから生まれる連帯意識がまたコミュニティの結びつきを強くする。
さらに、ジョニが心を痛めていたのは、近代的農業が、森林の伐採や化学肥料・農薬によって、水と土を損ない、汚染するという問題だった。化学肥料や農薬を使った畑はいっとき収穫が増した後、土の生産性は急激に落ちる。それを補うためにまた化学肥料や農薬を投入し、しかもその量は増えていくという悪循環が起こる。一見、非効率で低収量に見える「ク」の方が、長期的な視点で見れば、実はずっと効率的で、持続可能な農法なのだ。この再認識とともに、ジョニが忘れかけていたカレンの警句が心に蘇った。「水を飲むなら森を、土から食べ物をとるなら土を、大切にしなさい」
水も、土も、空気も、人間がつくったものではない。カレンの伝統的な世界観によれば、世界は、天を形づくる7つの層と、地を形づくる七層とからなり、生き物はその地の七層のうちの一層にすぎない。人間というのも、37のさまざまな魂の集合によってできている。こうした伝統的な世界観の再発見こそが、レイジーマンとしてのジョニを生み出したといっていい。
カレンの森林ローテーション農業「ク」
ここで、もう少し詳しく「ク」(タイ語で「ライ・ムン・ウィアン(循環する畑)」、英語では「ローテーション・ファーミング」)と呼ばれる、カレン版のアグロフォレストリー(森林農業)についてみておくことにしよう。
遠い村からノンタオ村を訪ねてきていたジョニの親友であり同志、パティセから聞き書きをする機会を得たことがある。かつて、キリスト教の牧師だったパティセは、長年、タイの少数民族の権利のための闘いを支えてきたカレン族の賢者の一人である。パティセはカレンの歴史を語る中で、こう言った。
「タイに入ってきたイギリスのボルネオ社は、タイ政府の協力を得て林業を始めました。そしてしまいに、彼らが求めた森の樹木、特に貴重材と見なされたチークの木はほとんど残らないほど伐採されてしまったのです」
19世紀後半から第二次世界大戦にかけて、ボルネオ社をはじめとしたヨーロッパ各国の商社が展開した森林の乱伐は、独立国であるはずのタイ(シャム)が実質的な植民地であったことを示している。森林資源が国有化されたのは1950年代後半のことである。
パティセは続ける。森林伐採のために、森の奥へと入り込むにつれ、「森の中で『ク』を営むパガニョ(カレン)の人々が目に留まりました。そして、政府の役人は『これは国家に対する害悪だ』とみなしました。カレンによるこの農法を放置すれば森が減り、外国に売れる木材もなくなってしまう、と。それでパガニョの人々に圧力をかけ始めたのです」
政府の役人や森林の専門家たちは、カレンによる伝統的な農業を「焼畑」と呼び、それを行う人々を森の破壊者と見なしたのである。さらにパティセは、「これだけはぜひお伝えしたいのだが」と前置きして、「ク」についてこう語った。
「よく誤解されますが、『ク』は森を破壊するのではなく、森を守る農法だということです。昔は、平地にまでその生活圏を広げて水田耕作を行っていたパガニョですが、タイ族によって山へと追われて、森の中で畑作をするようになりました。それがパガニョの言葉で『ク』と呼ばれる農法です。木を切って畑地をつくり、乾燥した後に火をつけて、短時間燃やします。その後に陸稲などの穀物、野菜など、多様な作物を植えて育てます。 地面から30センチほどの高さまで幹を残して切るので、木を殺すことはなく、断面からさらに多くの枝を伸ばし始めます。作物の収穫が終わった後、その土地をそのまま使わずにおいておけば、木々は再び育ちます。木が再び成長するまで待つのです。翌年はまた別の土地で、そのまた翌年はさらに別の場所、というふうに移動して「ク」を行い、7、8年たたなければ、元の土地で耕作することはありません。5、6年のうちに畑の樹木は十分成長し、自然林が回復してきます。ですから、「ク」は森林破壊ではないのです。それどころか、このやり方で、パガニョは何百年、何千年も、豊かな森と生態系を守ってきたのです」
長年の資源の乱開発によって森林が荒廃、さまざまな災害が頻発するに及んで、また環境問題を重視するようになった国際社会からの厳しい批判の目にもさらされたタイ政府が森林保護政策に乗り出したのは1980年代後半である。すでに、「焼畑によって森を破壊しながら移動していく者」というレッテルを貼られた北部タイのカレン族は、ますますタイの主流社会からの批判や差別、時には迫害の対象とされるようになった。この状況をさらに悪化させたのは、農業開発で土地を失った平地タイ人による、山地での焼畑の増加である。この焼畑は、カレン族による伝統農法で使われる火入れとは違って、森林火災、土壌流失、空気汚染、生態系破壊などの深刻な問題を引き起こしてきた。しかし、「焼畑をめぐる支配的言説のなかでは」この違いは無視され、「『焼畑=山地民の農法』という構図がつくられてきた」という。(注:出典『須永2011』)。
ぼくはスウェからこんな話を聞いたことがある。インドシナ戦争とそのあとの混乱の中で、ロイヤル・プロジェクトを打ち出したタイ政府にとって、それは国境地帯の治安のための切り札でもあった。当時のタイ社会では、治安、難民問題・麻薬問題・環境破壊・少数民族問題が一体で、不可分のものだという思い込みがまかり通っていた。
スウェが子どもの頃の学校の試験問題には、たとえば、こんなものがあったという。
問い:森林破壊の主な原因は次のうちのどれか?
- ダム
- 道路
- 農業
- 部族
スウェは苦笑いしながら、こう言った。「正解は4です。これは笑い話ではありません。今だって、同じことを教えている教師がいるんですから・・・」。ここでいう「部族」とは、カレンをはじめとする少数民族のことだ。
こうした偏見に対して、ジョニは北部タイ農民運動のリーダーとして、また森の民カレンのリーダーとして、さまざまな場所でこんな反論を展開した。では、その「部族」が住んでいるところだけ森がなんとか残っているのは、なぜなのか。かつて全土を覆っていたタイの森はどこへ消えたのか。森がなくなったのは、あなた方タイ人が暮らす中央部と南部、つまり、部族のいないところばかりではないか。あなた方のいるところまで、我々部族が木を盗みにいったというのか・・・?
再評価される「ク」
当時は、タイのエリート知識人やNGOの間にも、「ク」に代表されるカレンの生き方に対する無理解が広がっていたようだ。高等教育を通じて、欧米的な自然保護思想の影響を受けた彼らは、人間抜きの「原生の森」をイメージしがちで、森に依拠した伝統的な暮らしを、自然への脅威として捉えてしまう傾向があったという。
社会的孤立という状況を打ち破るべく、北部タイの農民や少数民族は「貧者の環境運動」を掲げて運動を展開し始める。そしてやがてそれは、「北タイ農民ネットワーク」(1994年)の設立へとつながっていく。常にその運動の中心にいたのが、我らがレイジーマン、ジョニである。
人類学者の須永和博は、ある論文で次のように言っている。
「北タイ農民ネットワークは、チェンマイ大学の研究者などが積極的に支援すると同時に、メーワン流域ネットワークの組織化の中心的人物で今日では北タイの環境運動の象徴的存在ともなっているカレンの長老、ショニー・オドチャオ氏の才覚と人徳もあり、徐々に拡大していった。現在ではタイ北部の環境運動のなかでもっとも精力的に活動しているNGO の1つであり、2005 年には「北タイ農民連合」に改組されている」(注:出典『須永2011』)
また須永によれば、このNGOがつくった「貧民大学」が、チェンマイ大学の研究者や NGO ワーカーらを講師とする村人たちの学びの場となった。そこでは現地の人々が都市からの知的階層と交流、情報や意見を交換することで「自分たちの問題をより明確に意識化していった」という。こうした少数民族の農民たちによる自己教育の成果の1つが、「ク」の再評価だったわけだ。
須永も、「ク」が近年、環境共生型の農法として評価されるようになってきたことに注目している。「自給用に多種多様な品種を栽培し、低地ではみられない『在来品種』も多く、また商品作物の生産を意図せず、化学肥料を使わない『自給志向』の農法であるため、生物多様性の保全に積極的な価値・意義を見いだす環境主義者らのあいだでも再評価されるようになってきた」(注:出典『須永2011』)
過去100年間のケシ栽培の流入、森林資源の乱開発、近代的農業の普及、主流社会からの偏見と政府による抑圧・・・。その激しい流れに押されて、衰退の一途をたどってきた伝統農法「ク」は、しかし、現在もまだ辛うじて存続し、むしろ近年の再評価の動きに支えられて、カレンの若い世代のうちにも保全や復興への気運が高まっているようだ。次号では、そこに光を当ててみよう。
(注)須永和博『「カレン・コンセンサス」を超えて:環境運動における「カレン文化」をめぐる言説と実践』獨協大学国語学部交流文化学科“Encounters”no.2、2011