第38話.写真でたどるジャカランダコーヒーの旅路
-土から生まれて食卓に届くまで-

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 コーヒーの収穫は、通常5月から9月にかけて行われる。

 収穫が終わると、コーヒー樹は白い花を咲かせる。そこに付く光沢のある緑色のコーヒーの実は、やがて黄色や赤、そして黒色へと1年を通して色を変えながら熟していく。

 実が成長し、「有機無農薬ジャカランダコーヒー」として日本の食卓に上がるまでの間、繰り広げられる作業の数々を写真で辿る。

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-土から生まれて食卓に届くまで-』

投稿者 akira : 2005年05月17日

第37話.ジャカランダ農場、故郷として

 収穫時に必要な人手の確保やコーヒー豆の出荷手続きなどを担当するセバスチャンは、ジャカランダ農場のスタッフのなかで唯一、マッシャード市から車で通ってくる。

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ジャカランダ農場を想うジョビッタ
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投稿者 akira : 2005年05月16日

第36話.土曜の夜、協会で

 農作業は、月曜日から土曜日の午前中まで行われる。1週間の労働を終えた土曜の夜には、農場内に建てられた教会に、近隣の農場からの信者も含めて30人ほどが集う。協会では、聖書が読まれ、ギターを伴奏に聖歌が歌われる。

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土曜の夜、ジャカランダ農場の教会で
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投稿者 akira : 2005年05月10日

第35話.ある雨の日の事故

 マリアーノは、朝は7時にはコーヒーの天日乾燥場に姿を表す。と、その隣には彼の長男ジョゼ・マルコス(28)の姿がある。

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マリアーノ、天日乾燥場にて
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投稿者 akira : 2005年05月10日

第34話.日が暮れて

 ジャカランダ農場での作業は、途中、昼食と休憩を挟んで、午後4時に終了する。

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農業学校に通うアイルトン
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投稿者 akira : 2005年05月10日

第33話.夏の草刈り

 南半球に位置するブラジルの8月は、日本の夏ほどに暑くはならない。だから肉体労働をしても、滴るほどの汗はでない。

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夏の草刈り作業
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投稿者 akira : 2005年05月09日

第32話.老いてもなお

 シルビオの父ジェラルドは7才のときにジャカランダ農場に移り住んだ。まだ、トラックでコーヒー豆を運べなかった時代、ジェラルドは牛車で運搬した。76歳になった現在も「仕事は好きだから辞めたくない」と言い、他のスタッフと同様、午前7時から午後4時まで働く。現在は1人暮らしだが、食事は息子の家で孫たちと一緒に食べる。

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休日には孫たちと一緒に過ごすジェラルド・パイバ75歳
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投稿者 akira : 2005年05月09日

第31話.ジャカランダコーヒーの生豆、60キロの重さ

 コーヒー豆の収穫は、毎年5月から始まり、9月頃まで続く。収穫されたコーヒーの実は、天日乾燥の後、脱皮機で外皮を削りとられる。残ったコーヒー豆は品質に応じて選別されてCF FRANCOと表記された60キロ入りの麻袋に詰められ、組合倉庫に搬入される。日本に出荷されるのはその後だ。

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コーヒー豆を運ぶアントニーノ
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投稿者 akira : 2005年05月09日

第30話.コーヒー園に響く幼子の声と歌

 ジャカランダ農場のコーヒー園の中では、幼い子どもの声や歌が聞こえてくる。危険な農薬を使用するコーヒー園では、子どもの立ち入りを禁止するが、まだ学校に通う年令に達しないジャカランダ農場の子どもは、コーヒー園で父母と一緒に過ごすのである。

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コーヒー園で、お母さんと一緒に過ごすパトリシア
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投稿者 akira : 2005年05月07日

第29話.労働のなかの静かな祈り

 ニーノの指示に従い、スタッフたちはそれぞれの作業所に散っていく。

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ニューバとホベルト
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投稿者 akira : 2005年05月07日

第28話.コーヒー樹を見守り続けて~現場監督 ニーノの仕事~

 朝7時、農場のスタッフは、天日乾燥場の脇にある事務所に集まる。そこで、その日に行う作業の内容や場所を指示するのは68歳の現場監督、ニーノだ。

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現場監督のニーノ
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投稿者 akira : 2005年05月07日

第27話.コーヒー樹に囲まれた生活空間

 ジャカランダ農場の最も標高の高い牧草地から大地を臨むと、10万本のコーヒー樹が植えられた丘陵のうねりの中に、波間を漂う小舟のように点在する10数軒の家屋を見つけることができる。

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ジャカランダ農場に点在する家屋
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投稿者 akira : 2005年05月07日

第26話.視線は地平線の遥か遠くまで伸び

 その年の10月3日、1年10か月ぶりにブラジルを訪れた中村を、カルロスはジャカランダ農場で出迎えた。中村はカルロスの身体のことが1番気になっていたが、元気なカルロスの顔を見て安心した。

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視線ははるか遠くへ
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投稿者 akira : 2005年05月07日

第25話.苦境を越えて

 1997年5月6日、カルロスからの手紙が中村のもとに届いた。無農薬コーヒー販売が10周年を迎えたことへのお祝いを伝えるその手紙には、カルロスの近況報告も書かれてあった。

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農場を眺めるカルロス
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投稿者 akira : 2005年05月07日

第24話.有機栽培の意味を実感するとき

 地球上で最も遠い距離を埋めるために、中村は、ブラジル、サンパウロに有機コーヒー社の南米事務所を設立する。現地スタッフは毎月ジャカランダ農場を訪問し、農作業、コーヒー樹の様子を写真やビデオに収録。さらにカルロスや農場のスタッフと話したことをまとめて日本に報告した。

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ブラジルと日本の掛け橋となって活躍するクラウジオ・ウシワタ(右)
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投稿者 akira : 2005年05月07日

第23話.想いを全て伝えて

 中村は無性に嬉しくなってきた。これまでたくさんのコーヒー園を訪問してきたなかで、これほど労働者とその家族を大切にする農場主に会ったのは初めてだった。

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ジャカランダの樹を植える
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投稿者 akira : 2005年05月06日

第22話.ブラジル、遠く広く

 1989年9月、中村はブラジル、サンパウロのグァリューロス空港に1人で降り立った。出迎えに来てくれる予定の日系ブラジル人が、この国における唯一の知り合いだった。知り合いといっても、ブラジルから来日していた彼をある農業雑誌で知り、電話で連絡して5、6分面会しただけに過ぎず、「いつでも訪ねてきてください」というそのときの言葉だけが頼りだった。
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1994年1月、ジャカランダ農場で
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投稿者 akira : 2005年04月26日

第21話.病に倒れて

 生協を退職した中村は、1987年9月に有機農産物産直センターを設立。独自の産直活動を目指し、無農薬野菜だけでなく、無添加食品や石けんなどの販売をはじめた。
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無農薬コーヒーの焙煎作業
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投稿者 akira : 2005年04月26日

第20話.チェルノブイリ原発事故

 1987年3月、中村は生協を退職した。その決意を固めた要因の1つには、その1年前の4月26日に起こったチェルノブイリの原発事故がある。チェルノブイリ原発の爆発により放出された放射能は、日本の農作物を汚染した。このとき中村は、長年、無農薬で培ってきた畑を一瞬にして汚染する放射能の恐ろしさを始めて知る。
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1995年9月28日、事故を起こしたチェルノブイリ原発4号炉の前で
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投稿者 akira : 2005年04月26日

第19話.無農薬野菜の産直運動

 卒業後、中村は農村や漁村の子どもたちに映画を見せる活動や、廃品回収業を経て、1980年、24歳のとき、福岡県内の生活共同組合に就職した。危険な農薬を多用する農業についても問題意識を持っていた中村は、無農薬野菜の産直活動に取り組んだ。

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消費者が畑で農業を体験する
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投稿者 akira : 2005年04月26日

第18話.水俣病との出会い

 1955年の冬、カルロスがブラジルの大河にいくつもの橋梁を建設していたころ、中村は美しい干潟を持つ福岡県の和白に生まれた。
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投稿者 akira : 2005年04月25日

第17話.「幸運」な出来事

 1993年1月3日、有機栽培で作られたコーヒーを捜し求める1人の男がジャカランダ農場を訪れた。
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カルロスと中村
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投稿者 akira : 2005年04月25日

第16話.本当の豊かさを求めて

 こうした自然の被害を受けながらも、カルロスは有機栽培に取り組み続けた。「化学肥料を使わなくなって4年経った耕地の土壌には、たくさんの有機質が含まれている」とカルロスは土作りの手ごたえを感じている。
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ジャカランダ農場での有機栽培を見学する人々
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投稿者 akira : 2005年04月25日

第15話.ジャカランダ農場が受けた被害

 有機栽培を始めた1993年のこと。5.7ヘクタールの耕地に植えられた6000本のコーヒー樹の葉が黄色く染まった。コーヒーの実の外皮を原料とする堆肥の散布が遅れ、土壌の養分のバランスが崩れたことが原因だった。この年の収穫は大幅に減少し、その影響は翌年の収穫にまで及んだ。
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霜の被害を受けたコーヒー樹
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投稿者 akira : 2005年04月25日

第14話.リスクを背負って

 1970年頃から化学肥料は、急速にブラジルの大地に浸透するようになっていった。
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現場監督のニーノと農場を歩くカルロス
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投稿者 akira : 2005年04月25日

第13話.コーヒーの有機栽培へ

 「人を大切にしたい」という想いから、ジャカランダ農場での農薬の使用を停止させ、さらに福祉活動にまで深く関わってきたカルロスは、また新たな取り組みを決意する。農薬だけでなく、化学肥料も使わない有機栽培への挑戦が1993年から始まった。
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コーヒーの有機栽培に欠かせない草刈り作業
続きを読む 『第13話.コーヒーの有機栽培へ』
投稿者 akira : 2005年04月23日

第12話.福祉活動との関わり

 ジャカランダ農場の生産者から消費者、そして自然環境を大切にするカルロスの仕事は、子どものいる未婚の少女たちや罪を犯した青少年を対象とする福祉活動にまで及ぶようになっていった。
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ブラジルのストリートチルドレン
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投稿者 akira : 2005年04月23日

第11話.カルロスと農場スタッフ

 ジャカランダ農場のコーヒーは農場に定住するスタッフたちの手により生産される。16人のスタッフの多くはジャカランダ農場で生まれ、その父、祖父たちもまたここで働いていた。カルロスにとって、農場のスタッフは家族同然であり、そこには農場主と労働者という枠組みを越えた関係が成り立っている。
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カルロスとアイルトン
続きを読む 『第11話.カルロスと農場スタッフ』
投稿者 akira : 2005年04月23日

第10話.次女テルマからのレポート

 その事件から2年後、当時サンパウロ大学で生化学と薬学を学んでいたテルマは、エステル・デ・カマルゴ教授の「中毒学」を受講した後、父カルロスに農薬の取り扱いに関する注意事項を事細かく書き込んだレポートを送った。
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カルロスの次女テルマ(左から3人目)現在、カンピーナス大学教授
続きを読む 『第10話.次女テルマからのレポート』
投稿者 akira : 2005年04月23日

第9話.農薬の到来

 第2次世界大戦後、ブラジルでは少しずつ化学肥料や農薬が使われるようになった。研究熱心な父イザウチーノはすぐに化学肥料を導入したが、農薬についてはコーヒー栽培にかけた生産において、一度も使用することはなかった。(享年75歳)
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ブラジル全国の農薬の消費量
続きを読む 『第9話.農薬の到来』
投稿者 akira : 2005年04月22日

第8話.ジャカランダ農場主として

 サンパウロで会社の経営に携わっているときも、カルロスは仕事の合間や週末を使って、父イザウチーノの農場経営を手伝っていた。1963年に父イザウチーノのを亡くしてからは、14人の兄弟に相続された農場のうち、コーヒー栽培の経験を持たない5人の兄弟の農場管理を請け負うことになった。
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ジャカランダ農場の入り口
続きを読む 『第8話.ジャカランダ農場主として』
投稿者 akira : 2005年04月22日

第7話.青年時代、ブラジルの大河に橋をかける

 カンピーナスの学校で学んだ後、カルロスは1949年、19歳のときにサンパウロ大学の試験を受けた。農場では水力発電やコーヒー豆の精選機械の整備をしていたこともあり、電気関係に興味を持っていたカルロスは同大学の工学部に入学。24歳で電気機械技師の資格を得て卒業したときには、すでに土木技師の兄クロービスとC Fフランコ建設会社を設立していた。
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カルロスが建設した橋梁、高さ36メートル、長さ1キロメートル
続きを読む 『第7話.青年時代、ブラジルの大河に橋をかける』
投稿者 akira : 2005年04月22日

第6話.初恋

 10歳になったとき、カルロスは農場から200キロ離れたカンピーナスの州立学校「クルトア・シェンシア」の入学試験に合格した。1937年2月1日が最初の授業であった。
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カルロスとフランシスカ
続きを読む 『第6話.初恋』
投稿者 akira : 2005年04月22日

第5話.カルロスの原風景

 小学校に上がったカルロスは、正午に学校が終わるとすぐに弁当を持って父のところに駆けつけた。最初に覚えた仕事は、天日乾燥場でコーヒーの実を乾燥させる作業だった。兄弟のなかで一番年下のカルロスは、兄たちに負けないように努め、次第に難しい作業をまかせてもらう。機械が好きだったため、カルロスは脱皮樹や自家製の水力発電機の整備を自分でするようになった。
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車のなかった時代、馬車や牛車は重要な輸送手段だった
  続きを読む 『第5話.カルロスの原風景』
投稿者 akira : 2005年04月21日

第4話.父イザウチーノのコーヒー栽培

 1915年、当時29才だったイザウチーノは約250ヘクタールの土地を購入し、彼の父親であるセベーロ・ビルジリオ・フランコが経営するマッタ・デントロ農場から独立する。その後、さらに経営規模を拡大し、713ヘクタールの面積を持つまでになった。
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コーヒー樹を直射日光から守る日陰樹
続きを読む 『第4話.父イザウチーノのコーヒー栽培』
投稿者 akira : 2005年04月21日

第3話.幼年時代、豊かな自然のなかで

 カルロスが生まれた1927年以降、ブラジルのコーヒー生産量の伸びは著しく、世界の総生産量を上回る2700万俵に達していた。コーヒー価格は下落し、さらに1929年から始まる世界恐慌が追い討ちをかけた。国際市場におけるコーヒーの需要は落ち込み、大量のコーヒー豆が焼却された。ブラジルのコーヒー経済が行き詰まるなか、失業率は急速に高まった。
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天日乾燥場
続きを読む 『第3話.幼年時代、豊かな自然のなかで』
投稿者 akira : 2005年04月19日

第2話.カルロス・フェルナンデス・フランコの誕生

 1927年8月22日。ミナス州マッシャード市に住んでいた医者アブリジオ・ノゲイラは、コーヒー樹が林立する丘陵地帯の赤い土の道を馬で走っていた。道幅は狭く、きつい傾斜のため、車で通り抜けることはできなかった。数時間前、セーハ・ネグラ農場のイザウチーノの家から、妻コルネイアの出産の急を告げる電話を彼は受けていた。
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            フランコ家一同
中列右から2人目母コルネイア、3人目父イザウチーノ、その後ろカルロス
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投稿者 akira : 2005年04月19日

第1話.カルロスの祖先から

 ブラジルの中南部、ネグラ山脈から連なるミナス州南部の高原地帯は幾つもの丘陵が重なりながら平地の彼方まで続いている。この丘陵の等高線をなぞるように、コーヒー樹が植えられていったのは、18世紀の初頭のこと。ミネラルを豊富に含むポリゾイロという土壌に覆われたこの大地は、年間を通して安定した気温や降雨に恵まれ、良質なコーヒーを生産するための自然条件を備えていた。日中の気温は30度前後にまで達するが、朝夕の冷え込みは厳しく、この大きな気温差はコーヒーの味をさらに引き立てる。
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 ジャカランダ農場全景
続きを読む 『第1話.カルロスの祖先から』
投稿者 akira : 2005年04月18日