糸を染める。染める色は時季に応じて変化する。春であれば梅や桜の淡紅色や桜鼠色、蓮の草色など柔らかい春風を感じさせるような色であるし、今の時季、秋であれば、背高泡立ち草の黄色や黄海抹茶色、茜の夕焼け色、浅緋色、矢車付子の黄茶色や黒茶色で充実して重々しい色になる。季節の自然から色をいただくことが多いから、染める色も当然季節の制約を受けるが、それだけでなく染める時季、目に入る自然の色を染めるのが、染め手である自分自身の五感に心地よい。昨日まで、そうして染めたしっとりと重たい色ばかりを好んで織っていた。
機は布を織るための道具。だから機と糸は常に一体のものである。その機に糸がかかっていないと、恋人に忘れられた女のように虚ろな心になって、寂しい。だから、機にかかった糸を布に織りながら、頭の隅で次はどんな布を織ろうかと考えている。そして次の布を織る準備をする。機を虚ろにさせたくないと、思う。 次のデザインを考える時は、いつも最後には部屋いっぱいに全部の糸を引っ張りだしてしまうことになる。あれやこれやと、これまでに染めた糸を手に取ってみるがなかなか決まらない。そうしているうちにコチニールで染めた桃紅色が目に飛び込んできた。
金平糖のような砂糖菓子に使われる色に目が吸い寄せられる。あまい、あまーい色。見ているだけで、目から直接心へと甘さが染み込んでくる。仕事や生活で疲れたとき甘いものが食べたくなるように、目にも時にはティータイムが必要なんだ。私はちょっと疲れていたのかもしれない。展示会を前にして、色と、糸と、織りに振り回されていた。まるで、くるくる回る糸車のように。
コチニールで染めた桃紅色の濃淡色の糸に茜で染めた茜色、ロッグウッドで染めた青みの紫色や黒紫の糸を少しずつ配色した。これを経糸として使う。
桃、茜、紫、その糸の色の流れに懐かしさを感じる。いつ、どこで見たのだろう。遠い記憶を手繰り寄せてみる。
「七夕」色だ。子どもの頃、使っていた短冊は、今のように色とりどりの色紙ではなく、半紙のように薄い紙にくすんだピンクや紫の色がついていて色数も少なかった。赤や緑がクリスマスのサンタの洋服や樅の木の色なら、桃、茜、紫は七夕だ。
桃が砂糖菓子のように甘い色で、それに、茜や紫が加わると七夕になる。
「わがためと織女のその屋戸に織る白袴は織りてけむかも」
(自分のために織女がその家で織っていた白布の衣はもう織り終わったかなあ。)遠く離れていても、自分のために布をひたすら織ってくれていると想えばその姿を想い浮かべるだけで寂しさを慰められたり、反対に愛おしく感じられ早く逢いたいと想うだろう。
「君に逢わず久しき時ゆ織る機の白袴衣垢づくまでに」
(あなたにお逢いできず長い間ずっと織ってきた白袴の布は、手垢がつくまでに…お逢いしていません。)ずっと逢えない男の布を、機にむかい織る。経糸の一段一段が、逢えない男を想う一刻、一刻。いく段想いを刻んだことだろう。布は女の想いの結晶であり、男の温もりを感じさせてくれるものなのだろう。
七夕は遠い昔から夜空をあおぎ、恋を想う日であれば、私にとって桃や茜、紫の色も、甘い、恋の色にどこかで繋がっているのかもしれない。
(本誌 さくら)