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人紀行〜果てなき森に生命は満ちて〜

甲状腺ガンを病む子どもたちの心のケアに取り組む
リュドミラ・ウクラインカ さん

手術、前夜

 「自分は大丈夫。気持ちも落ち着いているわ」そう言って面会に訪れた母を見送った。1992年、2月。ベラルーシ共和国首都ミンスクの冬の闇。そのなかに、リーパの樹が見えた。夏には蜂蜜の香りを漂わせるリーパの樹も、この季節のなかでは、凍てついた細い枝が、街灯に映し出されるだけだった。
 「最期かもしれない」そう思い、静かに病室の窓から見つめていた。バスの灯が流れていく。「私が死んだその日もバスは走っているのだろう」甲状腺の手術の前夜。それが、ベッドの中で抱いた想いだった。
 1986年4月26日に起こったチェルノブイリ原発事故。その際に放出された放射性ヨウ素が原因で、ベラルーシでは甲状腺にガンを患う子どもたちが、急速に増加していた。「ベラルーシの人は寿命は5年から10年しかない」そんな言葉を耳にした。さらに「野いちごを摘んではいけない。ミルクを飲むな」との指示を受けた。得体の知れない危険をどう理解していいか分からなかった。

 1991年の11月、15歳のときに甲状腺の検診を受けた。甲状腺に異常が見つかり、ミンスクの国立甲状腺がんセンターの1階にある診療所でさらに検診を受けた。診療所に入るとき、そこが「悪性腫瘍診療所」であることを確認していた。そして、その場で手術が必要だと言われた。「結節があるから取り除くだけ」説明を受けたが、それは「あなたはガンです」という宣告と同じ意味を持っているように感じた。 部屋を出て、涙が溢れ出してきた。隣にいた母も泣いていた。母が入院や手術の手続きをする間、廊下の椅子に座り、一人泣いた。寄り掛かれるところは、どこにもなかった。
 手術の一週間前から国立甲状腺がんセンターに入院した。どんな手術を受けるのか、何の説明も受けなかった。
 「下手をすれば声がでなくなる」手術を受ける患者の間で様々な噂が流れていた。手術室には2台の寝台があるという。そこでは同時に二つの手術が行われる。一方の手術が終わると、空いた寝台でまた手術が始まる。だから患者が手術室に入るとき、別の寝台で行われている手術を目の当たりにすることになる。当然、赤い血も目に入る。そのために緊張し、麻酔が効かなくなる。「手術室に入るときはなるべく寝台を見ないほうがいい」と他の患者からアドバイスを受けた。
 手術の順番を待つ部屋の窓から、手術室の中が見える。不安に耐えかねて、覗いてみた。4、5人の白衣の背中が動いていた。 
 手術は9時30分から始まった。その日、最初の手術だったので、一方の寝台では手術は行われていなかった。気持ちは落ち着いていた。麻酔により意識が薄れていく。遠くで、誰かが自分の名前を呼んでいた。

 手術の後、痛みで意識が戻った。翌日、医師が診察にきたとき、起きるように言われたが、痛みと疲労で起き上がることができなかった。腕を捕まれて、無理やり引き起こされた。そのときの診察では出た声は、やがて擦れて出なくなった。手術の際、声帯の神経を傷つけられていたためだ。その後半年間、その状態が続いた。
 さらに首元に残った傷跡が、ショックだった。「なぜ、こんな傷をつけられる必要があるの?」「いずれこの傷は消えるから」という医師の説明に、もう素直に頷くことはできなかった。
 術後、摘出した甲状腺の組織検査の結果、甲状腺にはガンはなかったということが分かった。いずれガンが発生するかもしれないから今のうちに取っておこう。それがこの国の方針だった。
 手術から五日後、退院を言い渡された。自分の後にたくさんの患者が待っているようだった。
 親戚や友達が心配してお見舞いにくる。しかし、同情や哀れみを受けたくはなかった。特に母に心配をかけさせたくなかった。無理にでも明るく振るまい、そしてなるべく言葉は発しないようにした。
 悪性腫瘍診療所で「手術が必要」との宣告を受けて涙したとき、「誰も私を支えてはくれない。自分自身の力でこの状況から抜け出さなければならない」と思った。しかし、自分の将来や健康への不安は耐えなかった。
 病、死、そして生。その意味を考え、辿るなかで、「今ある自分の生命」に最大の価値を見出そうと決意した。将来のことよりも今、自分が生きていることに意識を集中させたとき、「もともと楽観的だった性格がより活性化した」

 心理学を学んでいたミンスク国立教育大学で、ある日、イタリア人の教授の講義があった。テーマは「患者の心理について」。講義を聞きながら、「自分の体験を活かせることができる」と思った。
 手術の宣告を受けてから始まるあの孤独との闘い。医師への不信と体への不安。それに対して専門家による心理的なケアは一切ない。あの原発事故が起こってから今日まで、600人を越える子どもたちが、その不安と孤独の荒野に置き去りにされている。それを体験している自分なら、荒野に彷徨う子どもたちの心を癒すことができる。
 医療心理学の実習の場に、甲状腺の手術を受けた子どもたちが治療を受ける病院を選んだ。そこで、子どもたちが抱えている不安に直に接した。そして、チェルノブイリの悲劇に苦しむ子どもたちが心身ともに安心して生活していくための基金の創設を目指すようになった。
 「恐いものは何?」ある子どもは、チロキシンというホルモン剤の絵を書いた。手術により甲状腺を摘出されれば、誰もが一生その薬を服用しなければ、生命は維持できなくなる。同じ境遇にある者として、その重圧はよく実感できる。この国では現在、チロキシンは十分に支給されていない。3錠飲まなければならないところを1錠しか飲めない場合もあるという。海外からの援助が途絶えればよりいっそうその状況は厳しくなるだろう。
 過酷な状況は、子どもたちから希望を奪う。意気消沈し自分の将来に対して明るい展望を描けなくなっていく子どもたち。大学での勉強にも意味を見出せなくなり、途中で辞めていくケースも多い。家庭を持つということすら到達不可能なことのように思えてくる。
 「あなたは決して独りではない」と子どもたちに伝えたかった。カウンセリングのなかでは、人に愛された経験をなるべく多く思いださせるようにした。対話を通して、身近な人に愛された心地よい体験を再現し、問題を克服したときのことを想像させて絵にして表現させた。
 誰もが持っている心安らぐ風景。それを、もし自分自身に問われたら、こう答える。
「光と樹木に囲まれた森の中」と。 
 毎年、休暇はミンスクの自宅を離れてモギリョフの叔母の家で過ごしていた。そこには、地平の果てまで海のように広がる森と、それを覆う眩しい空があった。
 よく一人で森にでかけて、宿題や読書を試みた。しかし森の世界はあまりに賑やかで、勉強は手につかなかった。見上げる木々の間には陽光が差し込み、葉が風に揺れて舞い降りてくる。きのこや野いちごが目に入れば、じっとしてはいられない。すぐに駆け寄って手に包み込んだ。
 原発事故が起こってから5年の間、休暇の度にここの緑の地を訪れた。この大地が1平方メートル当たり15キュリーの放射能汚染地帯になったことを後で知り、そこに住んでいた叔母から甲状腺の検診を受けるように勧められた。
 原発事故が起こったあの日も、この緑の大地で過ごしていた。いつもと変わらないあの空にはしかし、甲状腺ガンを引き起こす放射性ヨウ素がすでに飛散していた。
 けれど、優しい匂いに満ちたあの森の空間は、目を閉じると、いつでも静かに広がってくる。

(本誌 矢野 宏和)

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