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インタグコーヒー物語
  やがて、伝説として

エクアドル、インタグの森に秘められた壮大なメッセージ。
語り継がれゆく物語は、まず二人の男の歩みから・・・

 1951年と1965年の1月2日。インタグコーヒーの生みの親となる二人の男が生まれた。一人はキューバのハバナで生まれたカルロス・ソリージャ。もう一人はエクアドルのコタカチで生まれたアウキ・ティテュアニャ。
 1951年生まれのカルロス・ソリージャは11才までハバナ近郊の小さな町で育った。幼年期をキューバ革命の時代に過ごしたカルロスは、青年期のカストロやゲバラがこの町を度々訪れたのを憶えている。
カルロス・ソリージャ
 カルロス・ソリージャ
 1962年、カルロスは家族とともにアメリカのロサンゼルスに移住した。カリフォルニア州オレンジ・コースト大学では写真と哲学を専攻したが、3年後、「大学教育」を辞め、「真の教育」を得るためにアメリカ各地を旅する。その間、農業、大工、カメラマンなど多くの仕事を経験した。
 この頃、アメリカはベトナム戦争の時代であったが、片方の耳が難聴であった彼は、徴兵を免れた。さらにその後、5年間、ヨーロッパ、北米、南米を旅した後、アメリカに戻り1年半滞在した。
 そして、1979年、27歳の時、自分の生涯の家を持つため、妻と2才の子どもと共にエクアドルに渡った。世界を旅したカルロスが、なぜ、エクアドルのインタグに終生の家を持とうと思ったのか。その理由は、「自然の素晴らしさと人々の暖かさにあった」という。
  インタグ地区に約400ヘクタールの土地を買い、家族といっしょに家を建てた。天然の森で覆われたその土地で、農業が可能だったのは50ヘクタールだった。そこで栽培したベリーでワインを作り、また、その傍らで牧畜を営み、チーズを生産した。
 ある日、カルロス・ソリージャは多々ある樹木のなかに、コーヒー樹があることに気づく。この地域では、森の中に様々な果樹や農作物を植える栽培方法が伝統的に営まれており、バナナやマンゴーなどの果樹の他に、コーヒー樹も植えられていたのだ。
 それは、アグロフォレストリ(森林農業)と呼ばれる栽培方式だった。この農法では、近代農業に比べて多種類の作物を混作するため、個々の作物の生産性は低くなる。しかし、多様性の豊かな環境のなかで、農薬や化学肥料に頼らない農業を営むことができた。
 さらに、標高1000メートルから1800メートル、年間雨量2000ミリから2700ミリ、気温20度から25度という環境は、コーヒー栽培にとって最適な環境であった。多品目栽培による自給的な生活のなかで、コーヒーは貴重な現金収入の支えにもなり、カルロス・ソリージャも少しづつコーヒー栽培を手がけるようになっていった。

受難の森にて

 そんな森での営みに加えて、環境保護という仕事に取り組みはじめたのは、その森が世界でも屈指の生物多様性(多種多様な動植物が生息していること)を誇り、地球上から減少し続ける生物種の絶滅を防ぐ上で、最も重要なホットスポットであるにも関わらず、常に破壊の危機と隣り合わせの受難の森でもあったからだ。
 最初は、ただ目の前の美しく、いとおしい森を守りたいと思った。しかし、命のゆりかごともいえる神秘的な森は、周辺の森が存在することによって、はじめてその豊かな生物多様性を保つことができる。決して、目の前の森を守るだけでは、森を守りきれないことがだんだんと解ってくる。
インタグの雲霧林
 インタグの雲霧林
 彼の住むインタグの森は、コロンビアの西側からエクアドルの北西部にまたがる「チョコ生命地域」という類い希な生物多様性に優れた地域に属していた。しかし、その多くは牧草地やバナナ、パーム油などのプランテーションにするために伐採されてしまい、かろうじてインタグとその近辺の森だけが残されていた。エクアドルの豊かな森林の90%はすでに破壊され、豊富な鉱山資源を持つインタグの森は次の標的にされていた。
 カルロス・ソリージャが、こうした森林破壊に対して本格的に反対運動を開始したのは、1991年、JICA(日本国際協力事業団)の委託により、日本のM社がインタグ地区フニン村において鉱脈探索の試験採掘を始めて、3年ほどたってからであった。
 若くリベラルなカトリックの司祭、ジョバンニ神父からインタグに「鉱山業者」が存在することを知らされるまで、カルロスは自分の足下に森林破壊の危機が迫っていることを知らなかった。鉱山開発計画と大規模な試験採掘は、地元住民との対話が一度もないままに進められていたのだ。
 鉱山開発で影響を受ける地域の植物や動物の多様性に関して、一例をあげれば、500ヘクタールの森林に、アメリカとカナダ全域を合わせた種類よりも多くのハチドリや蘭(ラン)が生息している。また、この地域は絶滅の危機に瀕しているジャガーやホエザル、メガネグマの生息地域でもあった。
 試験採掘の段階で、砒素やカドミウムなどの重金属によって環境は汚染された。エクアドルの生態系調査グループの発表によると、「採掘により、フニン村の住民にとって唯一の水源であるフニン川は汚染され、しかもM社は、それに気づきながらも放置している」ということだった。その結果、牛が死んだり、子どもに皮膚障害が現れていた。

森を守るということ

 この開発にどう対処するか。具体的にどのような取り組みを実践するのかを、カルロスをはじめインタグの住民は問われた。
 巨大な力を持つ開発勢力に対抗するためには、住民が力を合わせて立ち向かう必要がある。そのためにカルロスは、「住民運動を組織しよう」と提案する。
 1995年1月、カルロスが念願していたDECOIN(インタグの生態系の防衛と保護)という名の環境保護団体がインタグの住民によって結成され、カルロスは副会長に就任した。
 デコインの最初の仕事は情報収集だった。首都キトで活動する環境保護団体も協力してくれた。ニューヨーク植物園や世界的に著名な生物学者のエドワード・ウイルソンなどからインタグの森の重要性を証明する手紙を書いてもらい、カルロスはその情報を世界に送った。その結果、デコインは欧米の森林保護団の支持を得ていく。
 デコインの結成から10ヶ月後、彼らはコタカチ郡で最初の環境保護会議をフニンで開催した。この会議には、インタグの20のコミュニテイ(村や集落)から200人以上の参加者が集まり、エクアドルの政府高官や日本のM社、鉱山会社の代表も出席していた。デコインの活動が、世界の環境保護団体やエクアドル国内での関心を高めたことにより、開発側も地域住民の声を無視することができなくなったのだ。鉱山開発問題が初めて正面から取り上げられたこと、そして初めてデコインが公的に鉱山開発に反対の意を表明したことが、この会議における大きな成果だった。
 その後、活動は一気に加速する。インタグ地区全域で反対運動は盛り上がり、特に女性グループの活動は、目を見張るものがあった。そして、新聞やテレビが鉱山開発問題を繰り返し取り上げてくれるようになった。一方、開発賛成派からの巻き返しも凄まじく、カルロスたち中心メンバーは、たびたび脅迫を受けるようになる。
 カルロスは経済的に貧しいこの地域で、ただ単に反対するだけでは、長期的な鉱山開発の圧力に負けてしまうと考えていた。豊かな森のなかで自給的な生活を営んでいるとはいえ、インタグは経済的にはとても貧しい地域だった。国連調査によれば、インタグのアプエラ地区では、46%が食べていくのに十分な収入がなく、89.6%が貧困ライン以下であるとの結果が出ている。
 こうした経済的な貧困を抱える地域では、ただ単に「子どもたちに美しい自然を残したい」と訴えるだけでは、鉱山開発をくい止め続けることはできない。銅山開発に替わる発展の形を明確に示す必要があった。
 そこでカルロスは、銅山開発に代わる新しいプロジェクトを提案した。エコ・ツアーや女性グループによる民芸品の作成、そして、カルロスが特に大切だと考えていたのが、有機農業の推進であり、その中でも有機コーヒー生産者協会の設立は重要だった。<>br  もともとカルロスは、海外や首都キトに住む友人に、森林保護を訴えながら有機コーヒーを個人的に販売していたが、それが発展して、コーヒーの収益がデコインの自然保護活動の支援に充てられる仕組みが整い、環境保護活動とコーヒー栽培が連動するようになっていた。

森林農業の意味

 鉱山開発に代わる持続可能な発展(単なる経済成長ではなく、生活の質の向上を重視した、より人間的な意味での発展)の形は経済的、社会的、環境的という3つの領域を満たすものでなければならなかったが、この困難な課題のすべてに対する答えとなり得るのが、伝統的なアグロフォレストリ(森林農業)による有機コーヒーの栽培であった。
 生態系の維持という問題に関して言えば、銅山開発以前に、インタグの住民は、日々の営みである農業により、森を浸食していたという事実がある。かつてインタグでは、自給的な農業が営まれていたが、農場の拡大と近代農業が普及し始めるにしたがい森から樹木が減少し始めた。加えて焼き畑農法が、この問題に拍車をかける。
 インタグの住民が生態系の保護を考えるとき、まず自らの農業形態を省みる必要があった。この点で、アグロフォレストリによる有機コーヒー栽培は、生態系をより豊かに保ちながら生産できるという特性を持っていた。
 カルロスの呼びかけによって、鉱山開発から森を守り、持続可能な発展を目指して有機コーヒーを栽培しようという意識が地域に浸透していくなかで、1998年3月、ついにインタグコーヒー生産者協会が設立される。
 コーヒー生産による生活の向上、つまり経済面の問題に対して、このインタグコーヒー生産者協会の設立は大きな意味を持っていた。それまでのように生産されたコーヒー豆を何の加工もしないで仲買人に販売している限りは、十分な収入は見込めなかった。が、収穫したコーヒーに焙煎などの加工を施し完成した商品として協会が取り扱うようになれば、大幅な収入の増加が見込めた。<>br  しかし、国内市場だけでは、販売できる量が限られており、協会会員のコーヒーをすべて販売することはできない。
 どうしても国際市場に新たな販路を開拓する必要があった。が、一般の国際市場においては、インタグコーヒーにどんな社会的な意味があろうと、単なる一商品としてのコーヒーでしかない。たとえ、伝統的なアグロフォレストリにもとずく無農薬栽培コーヒーであっても、値段が高くなることはない。いわんや森林を守ることの意味など、価格設定とは何の関係もなかった。
 国際相場価格に翻弄され、仲買人や商社には安く買いたたかれ、他の地域で栽培されたコーヒーと混合されてしまえば、有機栽培や森を守るという想いをこめた「インタグコーヒー」として販売することは不可能になる。そんな流通のなかでは、インタグコーヒーの発展は考えられなかった。
 インタグコーヒーの価値を理解してくれる相手を探すこと。それがインタグコーヒーを成立させる必要条件だった。

ある知事の明言

アウキ・ティテュアニャ
 アウキ・ティテュアニャ
 そんな時期に、ある一人の先住民が登場する。1996年、インタグ地方があるコタカチ郡で、500年の歴史において初めてキチュア族出身の知事が選出された。自由の闘士という意味の名を持つアウキ・カナイマ・ティテュアニャその人である。そのとき、アウキは31歳という若さだった。
 「盗んではいけない。嘘をついてはいけない。誠意を持って生きよ。」というキチュアの教えを大切にするアウキは、キューバのハバナ大学に留学した後、エクアドルの大学で経済学を教えていた。
 1492年以降、スペイン人の南米への侵略によって、先住民はスペイン人に従属させられ、政治制度、経済制度、宗教、言語などが全て変えられる。五百年の歴史の中で先住民の社会は崩壊し、多くの命が奪われてきた。
 そうした事態に対して先住民族は、暴力を使わない平和的な抵抗、土地を求める闘い、そして同時に先住民族が、自らをもう一度組織し直す作業をやってきた。この20年で先住民族の政治参加と権利回復は急速に進み、エクアドルの人口1200万人のうち42%を占める先住民族の中から議員や自治体の首長が出始めている。
 経済学者のアウキは、経済的発展や政治参加を西洋社会や西洋文化に統合される形ではなく、自分たちのアイデンティティを失わずに達成することが重要だと考えていた。そうした考えに加えて、より人間的な社会を、そして環境にきちんと配慮した社会を作りたいという情熱を抱いていた。
 知事に就任したアウキは、他に例がないような徹底した参加型民主主義(草の根民主主義とも称される)を実践し始める。誰もが参加できる政治を目指して、アウキは皆に呼びかけた。「民衆議会に来てください。直接、話をしましょう。あなたたちは、どんな開発、発展、町づくり、郡づくりを望んでいるのですか。皆の意見で、それをつくっていきましょう」と。4年に1回、選挙で選ばれる議員の議会とは別に、1年に1回、誰もが自由に参加できる民衆議会を呼びかけた。年ごとに参加者は増えていくが、最初の年は250人の住民が集まり、委員会をつくった。環境に関するもの、衛生・健康に関するもの、教育に関するものなど、様々な委員会をつくって参加してもらうということを行った。
 これにより民衆の発想はガラリと変わる。これまでは、知事のまわりに議員がいて、その議員たちが考え、決めたことに、民衆は受動的についていくという状況だった。
 しかし、アウキは明言した。「決めるのはあなたたちだ」と。「自分たち(知事、議員)は、市民が手に入れにくい専門的な情報を提供する責任を負う。しかし、最終的に決定するのは、あなたたちだ」。
 もう一つ、この民衆議会の特徴は、年令に制限が無く若者や子どもたちも参加できるということだ。「子どもであっても、考えは持っている。どんな未来に暮らしたいのかというビジョンを持っている。しかし、ただ要求するだけでなく、青年、子どもたち自身がそれに向けて実際に活動するということが大事だ。民衆議会というのは、ただ要求を言うだけではなく、一年間に自分たちが何を行ってきたのか、その活動を自分たちで評価し、これから何をしていくのかということを考える場である。今までは、議員らに全てを任せてきたが、これからはそうではない。民衆が主人公で、自分たちが決めたら、それを自分たちで実行していかなければならない。」そして、アウキはこう付け加える。「私は、君たちに約束(公約)をしている。もし、私がそれを守れない場合には、君たちには私をリコールする権利がある」と。
インタグ遠景
インタグ遠景
 コタカチ郡はその後、デコインの提案により、法的に条例もつくって、南米で初めての「生態系保全自治体」となるが、これは、「若者がつくった」と言われている。銅山開発の問題が起こったとき、コタカチ周辺に暮らす若者たちが、インタグ地区をたびたび訪ね、そこで長期間の調査を行った。デコインの若者たちと協力して、「いったい銅山開発とは何なのか」ということを研究し、その結果をコタカチへ戻って人々に報告した。彼らは、「銅山開発は森林破壊になるし、持続的なものではない。一時的にはお金で潤うが、将来的には、いいことではない」ということを主張し、それを人々に理解してもらった。
 1997年に、二回目の民衆議会が開かれた。これは、銅山開発に賛成か反対かという決定を下す非常に重要な民衆議会となった。反対派は、賛成票が多くなるのではないかと不安だった。というのも、確かに、銅山開発が森林、環境破壊を引き起こすということが若者の活動ではっきりしたが、それでも人々は雇用を望む。銅山開発は雇用を生み、お金にもなるため、どうしても賛成派の方が勝ってしまうのではないかとの不安が募った。
 しかし、ふたを開けてみれば、人々は圧倒的な数で銅山開発に「ノー」を示した。それは、確かに一時的には雇用を得て、収入が増えるが、そのことで、自分たちの生きている場所そのものが永遠に失われてしまうということの重大さを、皆が理解していたのである。
 こうした取り組みは、後年(2000年)「ドバイ国際賞」の受賞につながる。国連、国連人間居住センター「ハビタット」、アラブ首長国連邦のドバイ市から、コタカチ郡はその社会参加と透明性のある自治により、世界で最もすばらしい試みをした地方政府の一つとして、賞を受けた。
 しかし、こうした住民の意志、自治体の決定にも関わらず、鉱山開発の動きは収まらなかった。その背景の一つに、対外債務(国際的な借金)の問題がある。
 「途上国援助」という名の下に、援助する側の国の企業が道路やダムや発電所などの建設を受注して潤い、援助を受ける側の民衆には恩恵が少ないだけでなく、「援助という名の借金」に利子も加算され、それを返済するために、民衆のための医療や福祉や教育予算を削ったり、外貨を稼ぐための輸出中心経済となる。
 エクアドルの対外債務は莫大で、近年の債務返済額は国家予算の50%を超えており、自然破壊型の開発によって、目先の外貨を稼ごうとする傾向が強まっている。
 このような政府や外国企業が進める開発計画を跳ね返していくには、「森を守りながら、持続可能に発展できる」ことを具体的な形で示す必要があった。つまりインタグでのアグロフォレストリ(森林農業)による有機コーヒー栽培を実現することで・・・。

インタグコーヒーの旅路

 そして、最重要課題は、インタグコーヒーを適正な価格で販売できる相手。その出現を待たなければならなかった。 インタグコーヒーのより豊かなつながりを求める出会いの旅がここから始まる。
アンニャ・ライト
 アンニャ・ライト
 まず現れたのは、この旅の水先案内人を勤めることになるアンニャ・ライトだった。カルロスやアウキ知事の取り組みに注目していたアンニャは10代から環境保護活動に関わり始め、世界の森林保護運動で活躍していたシンガーソングライターだった。
 コタカチでの取り組みの重要性を見抜いたアンニャは、その活動を支援するだけではなく、インターネットなどを通じて、情報を世界に発信した。
 届いた先に、日本があり、有機コーヒーのフェアトレードに取り組むウインドファームの中村隆市がいた。
 そのことで、インタグコーヒーの旅は、その船首を日本へと向けることになる。日本で開催される「国際有機コーヒーフォーラム」に、インタグコーヒーの生産者が招待されることになったのだ。それは、インタグコーヒー生産者協会の設立から8ヶ月後のことだった。
国際有機コーヒーセミナー
国際有機コーヒーセミナーに招待されたエドガー、ポリヴィオ、アウキ。
 1998年11月、協会会長であるエドガー・カバスカンゴとフニン地域代表のポリヴィオ・ペレス、そして、アウキ知事が、日本で開催された「国際有機コーヒーフォーラム」に招待され、インタグの現状を訴える機会を得た。「日本の企業による銅山開発によって森林が破壊され、川が汚染され、土に汚染が残るということがどういうことか。どうか、エクアドルの現状を理解して下さい。」と語るエクアドルの人々の報告を中村は、重く受け止めていた。この訴えを受けて、それを聞いたままにしておくことはできなかった。
 1999年の2月。「とにかく現地を見てみよう」と中村はインタグの地を訪れる。が、そこで待っていたのは、インタグコーヒー生産者の異様な熱気だった。日本で有機コーヒーの会社を営む中村がインタグに来るということで、日本にコーヒーを輸出するという期待は一気に高まっていたのだ。
中村とインタグの生産者
 中村とインタグの生産者
 中村が何より心を打たれたのは、インタグの人々が寄せる自然への想いと、これまでの取り組みだった。そして、その中心には、カルロス・ソリージャがいた。彼の存在が、インタグコーヒーへの信頼をより一層深めた。彼の自然を大切にしたいという想いと人間的な暖かさ、誠実さ。それは、フェアトレードを実現させるうえで、必要不可欠なものだった。
 20年以上、有機農産物の産直やフェアトレードに取り組むなかで、中村には身をもって学んだことがあった。それは、たとえスタート時点で農産物の品質に問題があるとしても、生産者が信頼できる人であれば、時間はかかっても必ずいい農産物ができるようになる、ということだ。
 類い希な生物多様性に優れ、地球にとってかけがえのない財産でありながら、常に鉱山開発の脅威にさらされているインタグの森。その森を守りたいという想いで満たされたインタグコーヒー。「この取り組みを成功させられないのなら、自分にフェアトレードを語る資格はない。」中村は、その場で輸入を決断した。それは、同じ地球という故郷の住人としての責任感とも言えた。
 1999年暮れ、インタグコーヒーは日本に向けて船積みされ、2000年から「無農薬インタグコーヒー」として販売が開始された。

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