事故や病気などで、一人で自由に身動きできない第1級、第2級の障害者の数は、全国で約109万2000人に及ぶ。このような障害を持つ人たちは、本屋に行ったり、友達に会いに行くときなど、ちょっとした外出をするのにも介護を必要とする。そのサポートをするのが、ガイドヘルパーの仕事だ。この職業に就くためには、特別な資格は必要ない。障害者からの推薦があればいい。
今年の3月からガイドヘルパーとして活動している鍬野さんの1日を追った。
障害者は、それぞれ自分の好きなガイドヘルパーを選んで仕事を依頼する。自分の行きたい場所と日程が、ガイドヘルパーのスケジュールと調整できればOK。その日の鍬野さんの仕事は、風船バレーに参加する谷沢君からの依頼によるものだった。
車椅子を押して車に乗せる桑野さん。
午前9時に鍬野さんは谷沢君の自宅に迎えにいく。谷沢君は、脳性麻痺のため、言葉を発するのに障害がある。そのため、キーボードで伝えたいメッセージを打ち、その内容が音声となって発音されるボイスサプライという機械でコミュニケーションをとる。「キョウハ オセワニナリマス」と谷沢君はキーボードを叩く。それに鍬野さんが笑いながら答え、「今日は彼女は一緒じゃないんか」と谷沢君の肩をつつく。
会場につき、谷沢君は運動靴に履き替える。その作業だけでも大変で、谷沢君の額にはすでに汗がにじむ。競技場に通じる階段を、一緒にゆっくり上っていくと、車椅子に乗った友達が待っていた。準備体操のあと、ガイドヘルパーも一緒に入り、風船バレーが始まる。5人ずつに別れてコートに入る。メンバー全員が風船にさわり、合計6回から8回のタッチで相手コートに風船をかえす。鍬野さんは車椅子に乗ったチームメイトを巧みに動かし風船に触れるようにサポートする。谷沢君も懸命に風船の動きを追う。みんな汗をびっしょりかいていた。
風船バレーが終わり、谷沢君を自宅に送るまでが、鍬野さんの仕事だ。午後1時ころ、自宅に着き、その日の活動時間を記録した報告書に、谷沢君のお母さんがハンコウを押す。この報告書に基づいて、時給1500円から2000円の給料が鍬野さんに支払われる。予算は国が半分、残りの半分を県と市が負担する。
鍬野さんは、2年前にある大手の企業を退職。自分が本当に何をしたいのか?やりがいを求めての結果だった。在職中に夜間の大学に通いはじめ、退職後に教員の資格を獲得。さらに職業訓練学校で大工の技術も学んだ鍬野さんは、障害を持つ友人を通してガイドヘルパーの仕事を知る。
退職後の鍬野さんにとって、このガイドヘルパーの仕事から得られる収入はありがたがったが、しかし、最初からこの仕事に馴染めたわけではなく、むしろ抵抗感の方が強かったという。
ガイドヘルパーは、障害者からの指示を受け、それに応じなければならない。人に使われる仕事にまず最初の不満を感じる。
食事の際には、手が不自由なため食べ物を辺りに散らかしてしまう障害者もいる。それは頭では仕方のないこととして分かっても、生理的な不快感を持ってしまう。「こんなことをするために自分は会社を辞めたのか?」仕事の合間にそんな思いがよぎる。その頃のことを「相手に何かをしてあげているという気持ちが強かった」と、鍬野さんは後になって振り返る。
ガイドヘルパーを始めて3ヶ月ぐらい経ったとき、鍬野さんの気持ちに変化が起こり始めていた。「してあげている」から、「一緒に楽しく何かをしよう」という意識に。そして、障害者への接し方も分かるようになり「相手の動きに合わせられるようになった」。あれこれ指示を受けなくても、身体が自然に対応できるようになり、障害者の方から指示を受けることも減る。
変化を促した劇的な事件や出来事があったわけではない。それは「障害者と一緒に過ごした時間の積み重ね」だと鍬野さんは言う。同じ場で一緒に過ごす時間は、ガイドヘルパーと障害者との間の信頼を育み、鍬野さんの収入も生む。障害者はそれだけ多く家の外で活動する機会を得て、ガイドヘルパーは、それを意味のある有償の仕事として取り組める。また、仕事を通して福祉の現場に数多く足を運ぶようになった鍬野さんは、障害を持ちながらもいきいきと活動をしている人々と出会うようになり、「今まで知らなかった新しい世界が開けてきた」という。退職後、社会との接点を失い、精神的に落ち込んでいた鍬野さんにとって、それは収入以上に大きな収穫だったかもしれない。
一方で問題も多い。「障害者の方にも他人の世話にはなりたくないという想いがある」から、ガイドヘルパーを利用する機会がまだまだ少ない。地域によって、このガイドヘルパー制度の普及に差があり、誰でも自由にガイドヘルパーになれないという現状もある。
また、公共機関の乗り物しか利用できないという規制は、移動の際に自家用車を使えないため行動範囲を狭くする。「低床性のバスもなく、あらゆる場所で段差が待ち受ける日本の街で、障害者がバスや電車に乗るのが実際にどれだけ大変か、行政は分かっていない」と鍬野さんは語気を強めた。
「確かな障害者の側の視点」、それは、障害者と一緒に過ごす時間を通して得た鍬野さんのもう1つの収穫だ。
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